「フィリー……?」
ヴィルヘルム二世はきょとんとした顔で、庭に突入して来た自分の家臣の名前を呼んだ。ベンチから立ち上がり、ヴィルヘルムは「あ……いや、オイレンブルク」と彼の名前を呼び直して続ける。
「オイレンブルク、ホルシュタイン、ビューロー、ビスマルク――突然、そんな……何をしている……?」
まるで起き抜けで寝惚けているかのような自分の主君の様子に、突入したフィリップ・ツー・オイレンブルクをはじめ、フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン、ベルンハルト・フォン・ビューロー、そしてヘルベルト・フォン・ビスマルクは揃って訳が分からないとでも言いたげな顔をした。
「皆揃って王に銃を向けるなど――一体どうしたと言うのだ?」
ヴィルヘルム二世のその言葉に、最初に名前を呼ばれたフィリーことオイレンブルクは、拳銃の射撃の構えを緩く解く。そして逆に彼は、自分の王に訊ねた。
「畏れながらヴィルヘルム陛下――貴方は何をなさっているのですか?」
「は?」
オイレンブルクの質問に、ヴィルヘルムは眉の形を歪ませる。
(この自分の腹心の臣下であったはずの者は何を言っているのだろうか?)
ヴィルヘルムは状況を理解出来ていないオイレンブルクに説明する。
「余はただ、バイエルン王とこの庭で茶を楽しんでいただけだが?」
ヴィルヘルムは後ろを振り向いて、彼の背後にいた人間を指して続けた。
「そこにいる、バイエルン王ルートヴィヒ二世と」
ヴィルヘルム二世の言う通り、彼の指す先にはまだベンチに座ってコーヒーを啜っていたルートヴィヒ二世の姿があった。
ただ、王と言うよりかは王太子と称したほうが腑に落ちそうな、まだ若い時分の姿をしていたが。
「バイエルン王……!」
オイレンブルクはバイエルン王の姿を認めると、ヴィルヘルム二世を退けて不気味な笑みを浮かべながらコーヒーを嗜むバイエルン王に改めて拳銃を向けた。それを見てヴィルヘルムは驚愕した。
「オイレンブルク!」
名を呼ばれても、オイレンブルクは今度こそ銃の構えを解かなかった。オイレンブルクや他の臣下達の行なっている挙動を見て、彼はやっと叫び、命じた。
「何をしている貴殿らは! 何故王に銃を向けている、さっさと銃を下ろせ!!」
しかし彼らは、銃を下ろすことはしなかった。冷汗を流し、緊張で手が湿り顔が歪もうとも、バイエルン王ルートヴィヒ二世に銃を向け続けている。それを見てヴィルヘルムは再度命令を掛けようと口を開けた。しかしすんでにオイレンブルクが「陛下」と言葉を発した。
「オイレンブルク……?」
ヴィルヘルム二世は黙る代わり、家臣の名前を呼ぶ。しかし名前を呼ばれても、オイレンブルクは振り向かない。ヴィルヘルムは不安そうな表情になる。
「ヴィルヘルム陛下」
その時、オイレンブルクの代わりにヴィルヘルムの名前をビューローが呼んだ。ビューローもまた、銃を向ける構えを解いていない。ビューローは続けた。
「陛下――申し訳ありませんが、銃を下ろすことは出来ません。命令に背くこと、お許しください」
「ビューロー――貴殿も何を言っているのだ……?」
「申し訳ありません、陛下」
ビューローの言葉を継いだのはビスマルクだ。ヴィルヘルムはビスマルクのほうを向く。
「これも陛下をお救い申し上げるためなのです、なぜなら――」
ヴィルヘルムが自分を「お救い申し上げる」と言う自分の言葉に耳を疑うのも構わず、ビスマルクは続ける。
「ルートヴィヒ陛下はヴィルヘルム陛下の誘拐犯なのですから」
「は――?!」
まだ事態を飲み込めないヴィルヘルムの後ろで、バイエルン王ルートヴィヒ二世は小さく嗤った。
*
「どうした?」
ジギがヘッドセットのマイクに向かって話しかける。
ジギは今、リンダーホーフ城の入口に止めたバンの中で自分の配下である旧プロイセン王国・ドイツ帝国の外交官達四人と、誘拐されたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の帰りを待ちながら、頭に着けたヘッドセット越しに外交官達の様子を伺っていた。
ヘッドセットは黒いスーツケースに収まった、一昔前に造られたような大きな通信機器に繋がっていた。通信機器からは他に、もう一つ分のヘッドセットのコードとアンテナが伸びている。もう一つのヘッドセットはお供のフンボルトが装着していた。
珍しく変装もせず、髪もブリーチブロンドのままの格好のジギが再度話しかける。
「フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン、そちらでは一体何が起きている?」
ガーッ、という機械のノイズが数秒あった後、「――ジギ」と名前を呼ぶ声がヘッドセットのスピーカーから聞こえた。ホルシュタインだ。
――ジギ。目標を発見した。
「いたか」
フンボルトが膝を叩く。
「早く皇帝陛下を連れて帰ろうぜ」
――私もそうしたいところだ、外相候補。
ホルシュタインに「外相候補」と呼ばれ、フンボルトは黙った。
フンボルトにとって「外相候補」とはハルデンベルクとの政治抗争に敗北したことを思い出させる屈辱的な呼び名だ。フンボルトは不機嫌になったのか、鼻をふん、と鳴らしたきりそっぽを向いてしまった。最も、これは言った本人のホルシュタインには知る由もないのだが。
ジギは「まあいい」と言って、ホルシュタインに指示を出した。
「とにかく、全員でヴィルヘルム二世陛下を救出して帰ること。ルドもご機嫌斜めだからな、このままだと朝には我ら全員でエーテルの泥と化すことになるぞ」
――承った。
そう言って、ホルシュタインは通信を切った。
*
「――承った」
そう言って、ホルシュタインは耳に着けていたイヤホンマイクのスイッチを通信ごと切った。それを横目で見ていたヘルベルト・フォン・ビスマルクがホルシュタインに訊ねる。
「ジギか? 何だって?」
ホルシュタインはイヤホンマイクをスーツのジャケットのポケットに適当に突っ込み、再び銃を構えながら答えた。
「早く陛下を救出して帰らねば、明日の朝には皆仲良くエーテルの泥になる、と」
「おおう」
ビスマルクの視線は、再び誘拐犯であるバイエルン王を捉えた。
「それはぞっとしないな」
一方で、前方のオイレンブルクらとルートヴィヒ二世の睨み合いは続いていた。
オイレンブルクがルートヴィヒ二世に言う。
「バイエルン王ルートヴィヒ二世陛下、我らがプロイセン王にしてドイツ皇帝であらせられるヴィルヘルム二世陛下を、どうかお返し願いたく」
「――はあ」
ヴィルヘルムの臣下達の態度に対して、ルートヴィヒはこの状況をどこかどうでも良さそうに見ているようだ。ほぼ空になりかけているコーヒーカップの底を、つまらなさそうにカップの角度を変えて見ながら、ルートヴィヒは言う。
「良いよ、勝手にすれば」
言って、ルートヴィヒはコーヒーを飲み干した。
「勝手にお帰り」
「貴方にも来て戴く」
ビューローが銃を構えながら言い放つ。ルートヴィヒはコーヒーカップをソーサーに叩きつけるように置いた。ビューローのほうを向いたルートヴィヒの目が一瞬眩い光を放ったように見える。しかしビューローは毅然として続けた。
「貴方にも来て戴き然るべき処遇を受けて戴かなくては。これは全ドイツの魔法使いの頭取、ルドルフ・ブルクハルト・ヘンカー・フォン・ローゼンクランツがミュンヘンの〝戦車〟であるリヒャルト・ブッフホルツを通して命じていることなのです」
ビューローはルドと、このバイエルンの首都であるミュンヘン魔法界を支配する魔法使いの名前を出して、事の重大さを強調した。そうすれば少しは――夢見がちどころか、今この瞬間、現在進行形で夢を見ている〝狂王〟ルートヴィヒ二世にも、関心を持って貰える、そう思ったのだろう。
しかし、ビューローの目論見は外れたようだった。
ルートヴィヒはベンチから降りると、誰にも――ヴィルヘルム二世やオイレンブルクにすらも――目を合わせること無く、虚ろな視線のまま顔を伏せ、ふらふら歩き出した。
「――『フィリー』……」
ルートヴィヒはぼそりと、ヴィルヘルム二世が使ったオイレンブルクの呼び名を呟く。オイレンブルクの背筋がぞくりと跳ねる。
「ヴィリーは最初、彼のことをそう呼んだんだ……でもすぐに言い直した……それは何故だろう……?」
ヴィルヘルムは背中に悪寒を感じて動けずにいた。先程まで親しく話していた相手が、急に恐ろしく思えてきたのだ。まるで得体の知れない化物か何かみたいに。
ルートヴィヒはそんなことなど構わず続ける。
「親しい相手をニックネームで呼ぶのは悪いことではない……しかしその相手の前でニックネームを使うことは憚られた……何か事情があるのか……スキャンダル、行き過ぎた感情、人間狂わせる、程の、こ、う、い」
その時、ルートヴィヒの脳裏に何かが走ったようだった。彼がぱっと顔を上げた瞬間、目が鋭く閃光を放ち、天から啓示でも授かったように恍惚とした表情を浮かべる。
オイレンブルクはその表情に怖気づいて、再び元の位置へ後退った。
ルートヴィヒは両腕を天に掲げ、感嘆を叫ぶ。
「そうか」
言って、ルートヴィヒ二世がほくそ笑むのが見えた。両腕で自身を抱き、顔を伏せ、しかし嗤いながらヴィルヘルム二世の背後から彼ににじり寄る。ルートヴィヒが微かに顔を上げ――口元を歪ませたのが見えた、その時だった。
「ヴィリーはフィリーが好きなんだね?」
そう言い放って、ルートヴィヒは勢い良くヴィルヘルムに駆け寄った。
ルートヴィヒがヴィルヘルムの首元、襟に手を伸ばすのと、オイレンブルクがその動作に驚き、何かに弾かれるようにヴィルヘルムの元へ飛び出したのはほぼ同時だった。
ビューローがはっと我に返ったように息を呑んで、
「オイレンブルク!」
と叫ぶ。その声にオイレンブルクは決死の表情で手を伸ばして、
「陛下!」
と悲鳴のように叫んだ。
ヴィルヘルムが一瞬だけルートヴィヒのほうを振り向く――ルートヴィヒは嘲笑っている。
ヴィルヘルムはルートヴィヒの表情を見るや否や、オイレンブルクに向き直りながらルートヴィヒから逃げ出した。
「フィリー!」
まるで子供のように恐怖に怯えた表情で、腹の底からヴィルヘルムは叫んだ。右腕を必死に伸ばす。オイレンブルクの手がヴィルヘルムの右手を捉えた。
が、それも束の間。
「あ――?!」
ヴィルヘルムは、急に息が苦しくなったのを感じた。首元が引っ張られている。ヴィルヘルムの右手が首元の引力によって空を切ったのをオイレンブルクは見た。オイレンブルクが視線を上げる。ルードヴィヒが嘲笑っている。
「ヴィリー?」
子供を諭すような優しくも威厳を持った恐ろしい声色で、ルートヴィヒはヴィルヘルムを自分に引き寄せながら言った。
「フィリーは、こっち、だ」
ヴィルヘルムは恐怖のせいか、このバイエルン王を畏怖しているのか、声を絞り出すことすら出来なかった。彼は狂王に抵抗する術を失って、ルートヴィヒに抱かれている。
オイレンブルクは、初めて彼の陛下が怯えた赤子のような目でこちらを見るのを見た。
「陛下――!」
もう一度、オイレンブルクは叫ぶ。しかしそれは結局徒労に終わった。伸ばしたまま、空を切ったままの手の先が、ベルリンの地下塹壕や核シェルターのような全面コンクリートの壁と化していたのだ。そこに庭など無かったとでも言うかの如く、オイレンブルク達はコンクリートの壁に閉じ込められていた。
*
神の祝福を受けるプロイセン王にしてドイツ皇帝にあらせられるヴィルヘルム二世陛下は、本日、バイエルンはシュタルンベルク湖を訪問なさっていた。
天気は生憎の雨天。小雨ではあるが、カイザーの御身体に障るといけないという臣下の考えで、陛下は近くの建物で雨宿りをされている。
陛下は静かに、薄暗い部屋で窓から湖をご覧になっている。息を吐けば白く濁りそうな、一見寂しそうなご様子だったが、しかし、陛下は寂しくなどなかった。
カイザーのいらっしゃるお部屋に、木製の、しかし装飾を施された分厚いドアを叩く音が響く。カイザーはドアのほうを向かず、
「――宜しい。入り給え」
と仰った。
「失礼します」
という返答がすぐに返った後、きい、というドアが軋む音を陛下はお聞きになった。陛下はゆっくりとドアのほうを向き――そして入室者もゆっくりと現れた。ヴィルヘルム二世陛下は入室者に微笑みを向けられる。
「やあ、フィリー」
フィリー――オイレンブルク侯爵もまた、カイザーに微笑みを返される。カイザーは嬉しそうにオイレンブルク侯爵に手招きされた。
カイザーは雨の日であろうと寂しくなどないのだ。そう――いつも、ご寵愛なさっているオイレンブルク侯爵がご一緒されているから。
*
四人の辿り着いたのは、小雨の降るシュタルンベルク湖だった。
「ここは――」
シュタルンベルク湖を望みながら、ビューローが呟く。
「確か、ルートヴィヒ二世の最期の地じゃなかったか? 医師と共に水死したという」
「ああ、有名だな」
ビスマルクがビューローの隣で足を止めた。
正直なところ、四人共にここまでずっと走り続けていた。幾つもの扉、回廊のような場面を出口を探しては抜け、入口を見つければ入る――それを繰り返して突破してきたが、そろそろデスクワークが業務の中心のような彼らには体力の限界が迫っていた。いくら魔法使いと契約したエフェメラの身体とは言え、夢見がちな王の〝夢〟は深遠過ぎたのだ。
ホルシュタインは焦りを隠せなかった。立ち止まって湖を眺めているビューローとビスマルクを、彼は黙って追い越す。その後をオイレンブルクが付いて行った。
「え、ちょっと――」
先に行ってしまったホルシュタインとオイレンブルクの後ろ姿を見て、ビューローとビスマルクがやっと再び歩き出した。
「気持ちは解かるが、置いて行かなくても――」
ビスマルクが文句を付けるが、ホルシュタインはそれを無視して歩き続ける。
ホルシュタインはちらりと後ろにいるオイレンブルクを見た。
「オイレンブルク」
と、ホルシュタインは彼を呼んだ。
「何ですか?」
オイレンブルクの返事に、ホルシュタインは訊ねる。
「侯爵は、確か陛下と共にこのシュタルンベルク湖を訪ったことがあるらしいと聞いた」
「は……?」
そう聞いて、オイレンブルクは頭の中にあるであろう記憶を探った。目を閉じ、自分の内面に集中する。
――そう、陛下と共に、ここへ来て、
――湖を眺めて、
――陛下の笑顔。陛下が「×××」と言っている……私は、
――あれ……?
オイレンブルクは違和感を感じ、眉を顰めた。微かに頭痛を感じる。
「オイレンブルク?」
ホルシュタインだ。オイレンブルクは目を開ける。ホルシュタインが背中を向けたまま言っているのだ。再度ホルシュタインが言う。
「オイレンブルク、さっさと返答をしろ」
「あ――ええ、来ましたよ」
オイレンブルクが慌ててホルシュタインに言った。それを聞いてホルシュタインがフン、と鼻を鳴らしたのが聞こえた。不愉快な。ホルシュタインが重ねて質問する。
「その時、陛下が湖の滞在中に使用された建物を教えろ。きっとそこにおられるだろう」
オイレンブルクはホルシュタインの言葉に足を早めた。彼はホルシュタインに追いつくと、
「私が先導しますよ」
と言った。
*
オイレンブルク侯爵は少しふらつきながら、カイザーの座っておられるお隣についた。侯爵の少しお疲れになったような様子に、カイザーは伯爵にお言葉をかけられる。
「フィリー、大丈夫か?」
侯爵は笑顔で――しかし疲れを隠しきれぬ様子で――返答した。
「はい、大丈夫です――陛下」
「侯爵」
陛下は侯爵を「侯爵」とお呼びになられた。陛下は侯爵に対し、威厳の篭った態度でこうお言葉を述べられる。
「余の前でそのような無理は止してくれ給え」
陛下は椅子から立たれると、侯爵に向き直り、
「余にはそなたが必要なのだ――そなたが居なくては、余は何も出来やせぬ」
と仰った。
いつものカイザーらしからぬ自信の無さげなカイザーのお言葉に、侯爵は、
「そんな」
と悲しそうに言葉を申される。
「そんなことを仰らないでください。私など居らずとも、ヘルベルト・フォン・ビスマルクやベルンハルト・フォン・ビューローがいるではありませんか」
オイレンブルク侯爵は跪く。跪き、顔を伏せる。
「彼らを重用ください。私など、ただの身分だけの凡人に過ぎないのです」
オイレンブルク侯爵の訴えは、降る小雨のように神妙にして一生懸命なものだった。
成る程、彼の言葉は確かにその通りだ。彼の兄は首相を務める程の人間だが、弟である彼は兄と比較すれば取るに足らないものだろう。彼は流れ込んだ遺産と爵位、政界のツテがある他はただの凡人に過ぎない。
しかし我らがカイザー・ヴィルヘルム二世はそれを一蹴するように、
「何を言うか」
と仰った。そのお言葉に、オイレンブルク侯爵は顔を上げる。ヴィルヘルム二世陛下は、オイレンブルク侯爵と同じ視線になるよう、侯爵と同じく跪かれた。
「余はオイレンブルク侯爵では何も出来ないのだ――それは侯爵がヘルベルト・フォン・ビスマルクやビューローを紹介してくれ、余の帝国を確固たるものにしてくれただけではない。解るか?」
皇帝陛下のお言葉に、侯爵は不安気な表情で首を傾げる。皇帝陛下はそんな侯爵を抱き寄せ、侯爵の耳元で囁かれた。
「貴方が他ならぬ、フィリップ・フリードリヒ・アレグザンデルだからだ――フィリー」
侯爵が息を呑むのが陛下にはお聞こえになった。陛下は侯爵から身体を離されると、侯爵を立たせ、ご自分もお立ちになる。陛下は続けて仰った。
「貴方が傍にいてくれるだけで、私はしっかりと立っていられるのだ。何より、心安らかでいられる――貴方が私の心の居場所なのだ」
「陛下――」
陛下は侯爵の顔を引き寄せになった。
「だから、健やかでいてくれフィリー――私は貴方を愛しているのだから」
「陛下――」
「フィリー――」
*
やっとエリュシオンに来てからずっと、オイレンブルクは自分の記憶に欠落を感じている。しかしそれはエリュシオンで暮らしていてずっと感じるようなものではなく、何かをしていて、ふと思い出せないことに気づいたりだとか、或いは今共にいるような同時代人達と会話している時だとかに、違和感として感じるようなものだ。記憶の塊に自分でも気付かないほど小さな穴があるらしい。
そんなことはエリュシオンに居る者なら珍しくない、とビューローは言っていた。彼もまた自分の家がどのようなものだったか、家族は勿論、先祖がどのようなことを成した人間だったかも知らないし、調べようにも記録が根こそぎ無くなっているんだとか。
彼は普段は不安そうにする素振りは見せなかったが、オイレンブルクは今回、ビューローのように毅然と振る舞えるかどうか不安になってきていた。何故ならば――今回気づいたのだが――ヴィルヘルム二世と自分の関係について、穴が多すぎることに気づいたからだ。
*
オイレンブルクの先導で辿り着いた建物、その廊下を進んで行き、四人はついに主君・ヴィルヘルム二世と誘拐犯である〝狂王〟ルートヴィヒ二世のいるであろう部屋の扉の前に辿り着いた。
ホルシュタインがまず扉に張り付く。中からは大きな声は聞こえない。
(狂王はいないのだろうか?)
これはかえって好都合かもしれない――ホルシュタインは思った。
ホルシュタインは手招きし、ビューロー、ビスマルク、そしてオイレンブルクを呼び寄せる。四人は揃って拳銃を取り出し、すぐに撃てるように構えた。
「良いか」
ホルシュタインが声を低くして言う。
「一、二の三で突入する――合わせるように」
他の三人が首肯するのを確認し、ホルシュタインは再び口を開いた。手をドアノブに掛け、息を吸う。
「一、二の――」
ホルシュタインがぐ、と扉を押し開ける。
「三!」
三、の声と同時に、四人は拳銃を再び構えた。
部屋の中は至って静かだ。聞こえるのは小雨が屋根や窓を打ち、水たまりに水滴が落ちる音くらいだろう。
そう思ったのも束の間だった。
「ん?」
と、ビスマルクが首を傾げるのをオイレンブルクは見た。オイレンブルクは彼に近寄ると、
「どうかしたかい?」
と訊ねる。ビスマルクは部屋の奥の窓辺を指して言う。
「あそこ」
「あそこ?」
「あそこに人が二人いるんだ」
その言葉に、他の二人――ホルシュタインとビューローも集まってきた。ホルシュタインがオイレンブルクを退けてビスマルクに再度訊ねる。
「どこに、何だ?」
「あそこだ。部屋の奥の窓辺。人が二人いる」
「二人……?」
言われて、ホルシュタインは目を細めてビスマルクに言われたところをじっと見た。
確かに、人が二人、並んで立っているように見える。だが、それは部屋が薄暗いせいか、陰が重なって一人にも見えた。それがこちらに気づいていないのか、微動だにしないのも、かえって判断を鈍らせることになりそうだ。
しかしホルシュタインは、それが目標のどちらかだろうということを確信し、それに近付いた。オイレンブルク、ビューロー、ビスマルクもそれに続く。
その陰は、こちらに気づいているのかいないのか、動こうとしなかった。心無しか、水たまりの揺らぐ音がすぐそこに迫って来るような気さえし、それがホルシュタインの苛立ちを助長させた。
その時だ。
「え、あれ?」
と口を開けたのはビューローだった。ビューローは足を止めると構えを解き、目を瞬く。
「何で、オイレンブルクが――陛下と――?」
真っ先に反応したのは名前を出されたオイレンブルクだ。足を止め、ビューローを凝視する。
「え、何だって?」
オイレンブルクはビューローに近づき、目を擦る彼の肩を掴んだ。
「何て言ったんだ、ビューロー?」
「いや、待て、でも――見ろよ」
ビューローは逆にオイレンブルクを自分の肩から剥がすと、彼の両肩を掴んで自分の見ている同じ方向を向かせる。
「陛下がお前と――き、キスしてるんだけど」
その言葉に、一同は凍りついた。ホルシュタインすらぎょっとして、背筋が凍るのを感じている。
一同の視線の先で、確かにヴィルヘルム二世とオイレンブルクは接吻していた。しかし一同の中に確かに同一人物であるオイレンブルクがいる以上、どちらかはルートヴィヒ二世の化けた偽物ということは確かだ。
しかしそんなことはこの際どうでも良い。問題はプロイセン王にしてドイツ皇帝であるヴィルヘルム二世が、一介の臣下であるオイレンブルクと接吻を堪能しているという事実だ。
「あ――」
当のオイレンブルクは、自分ではない自分が、自分の親愛なる皇帝陛下と接吻しているのを見て、思わず口元を押さえて顔を伏せた。自分がしているわけではないのに、何故か口元が緩んでいくような感覚に襲われたのだ。
「うう……」
そしてオイレンブルクは上目遣いで他の三人の様子を伺った。彼は三人がこの許されざる行為を何故止めないのか不思議でならなかった。呆気に取られているのか、状況を理解出来ていないのかは分からない。しかしこの状況が恐ろしくて堪らなかった。胸元が酷く掻き毟られるような気持ちさえした。
水がぴちゃぴちゃと音を立てるのがこんなに我慢がならないのは、生まれて――死んで――初めてだ。
視線を上げる――と、あちらの自分と目が合った。あちらの自分は目がギラついて見える。酷い敗北感がした。
次の瞬間。
「……ぁ」
その時、オイレンブルクは自分の中にある火薬樽に直接、大きな炎が突っ込まれるのを感じた。自分の怒りを封じていた縄が爆炎によって無残にも残酷にも千々に割かれる。自分の身体が不快感を跳ね除けて動く。横にいたビューローが、自分の脇からエフェメラの散るのが見えたと思った瞬間に、オイレンブルクは白い胸甲騎兵の衣装で飛び出していた。
オイレンブルクは、自分と皇帝陛下、そして禁忌を犯した自分の間にあった椅子を飛び越え、その足で自分の頭を蹴り飛ばした!
「お――おい」
ビューローが何か言うのも、夢から覚めたようにきょとんとしているヴィルヘルム二世にも構わず、オイレンブルクは床に倒れた化けの皮の剥げた自分だった者を、エフェメラのブーストの掛かったままに窓の外へぶん投げる。
「オイレンブルク!」
最早怒りで頭がいっぱいで何も分からないオイレンブルクは、自分がぶん投げた男を追って、湖のほうへ飛び出していった。