「暑い……」
じりじりと焼けるような炎天に、思わず歯軋りをしながら、僕は、八月に入って三十度超えの日が続いて今日で何日目か、とふと考えた。
ベルリンに限ったことではないが、ドイツで三十度超えの日が続くことなどはあまり無い。むしろ二十度代が普通のドイツでは三十度超えの日が続くのは喜ばしいことであり、ベルリン市民をはじめとするドイツっ子達にとってもそれは例外ではない。夏期休暇シーズン真っ只中ということもあり、人々は喜んでウンター・デン・リンデンで散歩を楽しんでいた。
が、元来家の中で本の虫の僕には、それがちっとも理解できない。僕にとってのドイツの夏とは、窓やカーテンの類いは全て締め切り、外気は全て遮断し、快適な地下室に閉じ篭もるものだ。そんな僕を友人達は笑って「お前は変温動物か」と馬鹿にするけど、こちとら変温動物上等である。いつまでも野外で日光浴などして、鶏の様に直火焼きになってしまうよりマシだ。
そんなわけで、この時期になっても仕事が入っているのは僕にはとても幸福なことだった。僕は足早にオフィスへ向かうことにする。
僕の職場は国防省の地下だ、と家族や友人に言った時、母親には真っ青な顔で心配され――今でも時々、電話越しに「辞めろ」と言われる程だ――、ベルリンっ子の友人達には腹を抱えて大笑いされた。
僕は大学卒業後に、この国の決まり通り、志ある成年ドイツ人達のように兵役コースを選んだのだが、そもそも本の虫の僕にはどだい無理な話だということに気付かなかった。そもそも、志で体力がどうにかなる程この世の中は甘くない。案の定その過酷さに音を上げ、挙句、送り込まれた戦場で大怪我をしてしまったらしい。で、代替任務ということで、通常なら福祉施設での奉仕活動を申し渡されるところを、「お前にぴったりの任務だ」ということで国防省の地下での勤務を申し渡された。僕だって最初にそこの配属だと言い渡された時は耳を疑ったものだけど。
そう、ベルリンにある政府機関や歴史的建造物の地下に関する“噂”――あるいは都市伝説――はこの国に住む者なら殆ど知っているくらい、ちょっとした語りぐさとなっているのだ。
いわく、『ベルリンの地下施設には、旧体制によって蘇らせられた過去の偉人が棲んでいて、密かに国家に貢献している』。
なんとも嘘臭い話でしかない。けれどベルリンっ子は誰でもこの話を聞いて育つし、僕も例外ではなかったが、たいていの場合、単なる噂だの都市伝説だのと一蹴される。けれど時々、「地下から教科書に載っている肖像画に似てる人が出てくるのを見た」という者もいるのも事実だ。
幸いなことに(?)、僕はその話の真偽を確かめる機会を得たのだが、答えはと言えば――
僕の職場は国防省の中にある。現在は建物の一部がドイツ抵抗記念館として一般公開されているのだが、そんな事は気にせず、僕はその建物の裏手に目立たぬように設置された、古びた地下階への階段を降りる。すると、現代的な鉄筋コンクリートのビルとは造りも雰囲気も一変した空間が現れた。壁も足元もレンガで、そこはある意味要塞や監獄を彷彿とさせる。階段を降りた先は、割と広めの廊下が先が暗くなって見えなくなるまで続いているのだが、階段を降りたところのわりと近くに、僕達の職場――僕は単純に『オフィス』と呼んでいる――へのドアはある。『オフィス』やその入り口の近くだけ、少し造りが真新しい。とは言え、これも一昔も二昔も前のものなのだが。
軽くコンコン、とドアをノックして入る。
途端に、古びた電灯とレンガ造りの壁も手伝って、かなり古い時代の空気に変わったような気がした。
「やあ、シュミット」
オフィスの扉を開けて一番に僕――シュミットというのは僕の名前だ――の名前を呼んだのは、珍しいことに“先生”だった。オフィスを見渡すと、なるほど、いつもは僕を入れて五人のオフィスには、今は僕と、部屋の奥のほうのデスクに着いて挨拶をしたっきり顔を伏せたまま紙をめくる“先生”の二人しかいない。
珍しいと言えば、“先生”自身も、普段から想像を絶する寒がりで、年がら年中冬装備な方なのに、今日は愛用の黒いトレンチコートは椅子の背もたれに、同じく黒いジャケットは“先生”自身の肩に掛かっていた。“先生”のぺらぺらと書類の束をめくる音が響く。
「おはようございます、“先生”。――フリッツさんは?」
僕の質問に、“先生”は思い出したように紙をめくる手を止め、ぼさぼさの髪を掻いた。ちなみにフリッツさんとは、普段僕がオフィス内に入った時に大抵真っ先に挨拶してくれる方である。
「……まだ来ていないみたいだけれど、会わなかったかい?」
そう、ぼそぼそと呟くようなハノーファー訛りで言う。残念ながら、僕が歩いて来たのは六月十七日通りだ。フリッツさんがいつも通るウンター・デン・リンデンとは真逆の方向にある。僕は肩をすぼめて、
「すみません、逆方向から来たのでお会いできませんでした」
“先生”はふうん、と書類の束を揃えながら、
「そう。ああ、そう言えばそうだっけ」
と、やっと顔を上げて眠たそうな表情で答えた。あっさり、というよりは関心のほとんど無さそうな答え方である。実際のところ、“先生”はこの世には関心が全く無いらしいけれど。
というのも、“先生”が件の都市伝説で言うところの『旧体制によって蘇らせられた過去の偉人』の一人で、“先生”のいわく、『死者がこの世に未練を持ってどうするのだい?』ということらしい。しかし“先生”の旧知の人であるナイトハルト卿やブリュールさんは、“先生”は生前から厭世的で憂鬱そうな方だった、らしいのだが。そのせいだろうか、僕の知っている『過去の偉人』の中では、“先生”は一番それらしく見えるのだ。
僕はコーヒーを淹れつつ切れそうな会話を無理矢理続けた。
「そう言えばついでですけど、ブリュールさんも居ませんね。あ、冷たいのにします?」
「必要ないよ。あ、ミルク付けてね」
僕は“先生”に、まだ湯気が立っているコーヒーにミルクを添えて手渡した。“先生”は答えて、
「ブリュールもウンター・デン・リンデンの辺りの喫茶店に行ってしまったよ」
“先生”はミルクのカップの蓋を綺麗に剥がすと、コーヒーに垂らす。真っ黒いコーヒーが白く濁っていくのが見えた。
「彼、ブログ――だっけ? やってたでしょう? それを読んでる人が是非会ってくれ、って言ってきたんだって」
「すごいですね」
ブリュールさんは好奇心旺盛というかミーハーだなあ、とは思っていたけど、まさかオフ会をやるまでになっていたとは。一回だけそのブログを見せてもらったことがあったのだが、実を言うとあまり一般受けしない内容だと思っていたのに。そう思いながら、僕は自分のぶんのコーヒーを淹れた。“先生”の変な物を見る視線を尻目に、僕はコーヒーカップに氷を投入する。元来ドイツ人にとって、こういうアメリカ人の言うところのアイスコーヒーは理解できないのだが、こんな暑い日は形振り構っていられないのが僕だ。物が崩れるような音の一方で、カランカランと鈴の音に似た音が鳴る。
「ナイトハルト卿は――連邦議会でしたっけ」
ちなみにここで言う『連邦議会』とは、もちろん『連邦議会の地下』のことだ。“先生”達のような人々は他にも何人かいらっしゃるのだが、この国防省の地下の他、連邦議会の地下や皇太子宮殿の地下など、幾つかの建物の地下に分かれて棲んでいるらしい。僕はここくらいしかよく分からないが、フリッツさんは皇太子宮殿の地下から通ってくるのだとか。
“先生”は答えて、
「うん。私の仕事は戦史のチェックくらいだし、――暇なんだよね」
「はあ」
僕の仕事も“先生”達の仕事のサポートみたいなものだ。けれど“先生”は「終わった」と言い、他の方々も出払ってしまっている。ということは、やることは一つである。“先生”はにっこりと笑って僕に言う。
「で、シュミット。暇潰しにチェスにでも付き合ってくれないかい?」
「そう言えば、君がここに来てから一年になるのだっけ?」
チェスを始めて数分。“先生”は唐突にそんなことを言い出した。チェスも一進一退、動きがほとんど無いと言っても過言ではない状況下で、である。僕は少しびっくりしつつも、答える。
「そうですね」
「ここには慣れた?」
「まあ、おかげ様で大分慣れたと思いますけど……」
「そう」
“先生”は落ち着いて駒を動かしているものの、さっきから何をしたいのか分からない。僕が仕掛けてものらりくらりと躱されてしまうのだ。
「最初は大変だったものね、何をしてもビクビクしてるのだもの。えっと……詐病じゃなくて、何だっけ?」
「心的外傷後ストレス障害ですってば」
「ごめん」
“先生”が苦笑交じりながら謝罪してくれる。いい加減勘違いには慣れたけど、詐病だけはやめて欲しい。
「それで。あの時は「死にたい」ばかり連呼してたけど、今はどうなの?」
不意に、僕は駒を動かすのを止めていた。“先生”は何気なく話題を振ったのだろうけど、僕はなんとなく、自分の真っ暗な部分に触れられた気がしたからだ。僕はそれに答える代わりに、“先生”に訊いた。
「“先生”達はどうなんです? 『死に方探し』に進展はあったんですか?」
それで、やっと“先生”は僕の気持ちに気づいたらしい。一瞬眉を顰めたあと、
「ごめん」
さっきとは打って変わって、沈んだ声で小さくそう言ってから、“先生”は何事もなかったかのように続けた。
「進展はこれといってないね。『綺麗に死ぬ』っていうのは案外難しいみたいだ」
「そうですか」
僕はそう言って、“先生”の駒を取る。“先生”は何も言わない。表情一つ動かさなかった。
「私らが目指しているのは――歴史書のある一節を引用するなら――『前方への退避』だ。ただの後退じゃ話にならないよ」
「それ、何度も聞いていますけど、未だに意味が分からないんですよね……て、あ!」
“先生”が僕の駒を取ってしまった。“先生”は
「待った無しね」
と笑う。余裕の笑みが悔しい。
「つまり、目的があるか無いかだよ」
そう“先生”は言う。
「目的、ですか?」
「そう、目的。目指す結果はどうあれ、君に目的はあったかい? シュミット」
そう訊かれ、ふと、この地下室へ来たばかりの頃の自分を思い出す。思えば、あの頃の自分はただ闇雲に『死にた』かったが、でも何で『死にた』かったのかが思い出せない。けれど、それだと自殺にもいちいち理由が必要なのか、とも思うのだが。
僕は言葉に詰まって首を傾げた。“先生”は続ける。
「目的さえあれば前には行けるでしょう? でも私らが求める結果はどっちにしろ逃避でしかない。でもどうせなら前へ行ったほうが良い」
「でも、それだとただ格好つけてるだけにしか聞こえませんか?」
僕は反論するが、本当はそんな余裕が無いことに気づかなかった。“先生”が僕の駒を着々と取っ払ってしまっていたのだ。“先生”は微笑んで、
「少しでも聞こえがいいほうが私は良いと思うけどね……はい、チェックメイト」
カン、と駒がチェス盤にぶつかる小気味いい音がした。僕は呆気にとられる。
「えっ、えっ……嘘……」
よくよくチェス盤を見てみると、僕の駒は“先生”の駒に包囲され、各個撃破されていたのだった。僕が取った“先生”の駒はほんの一部だったわけである。
「うん、目的はあったほうがいいよね」
“先生”が笑って言った。
「やっぱり“先生”が強すぎるんですよ!」
撃破させられてしまった自分の駒達を名残惜しみながらチェス盤を片付け、すっかり氷が溶けて薄くなってしまったコーヒーを淹れなおして、僕は言った。
「参謀経験者に勝てるほうが可笑しいんですよ! よくよく考えたら、参謀っていうのは仕事でチェスをやってるようなものなんでしょう?!」
けれど、“先生”はしらばっくれているのか無自覚なのか、きょとんとしている。
「それって、兵棋演習のこと? ――え、そうかな? 兵棋演習より簡単だよ?」
――分かった、無自覚なんだ。ちなみに兵棋演習というのは、軍隊がよくやる、チェスをもっと複雑にしたようなものだ。僕は呆れて言う。
「僕は兵棋演習はやったことありませんし、一般市民だって兵棋演習なんてしません」
「あっ、そうか……、でもぼくだってやったことないぞ?」
“先生”がコーヒーを口に含む。しかし、顔を顰めて飲むのを止めてしまった。ぬるくて飲めたものじゃなかったようだ。
「淹れなおしましょうか?」
僕は手を差し出すが、“先生”は頑として、
「いや、飲むよ」
そう言って不機嫌そうにまずいコーヒーを一気飲みする。
「消耗品は大切にしないとね」
そう言ってコーヒーを飲み干すと、空のカップを机に置いた。
「つまり、みんな一緒なんだよ。チェスも戦争も生きることも全てね。状況を的確に把握していないと何をして良いか分からないし、目的を持たなければ前へ進めない」
“先生”は諭すように言う。誰を諭しているのかは分からない。僕かもしれないし、あるいは自分自身への戒めかもしれない。
「退避は悪いことではないけれど、前へ進んだほうが聞こえは良い。『逃げ』なんて最悪な響きだ。それと、」
“先生”がにっこりと笑って机の上に置いていたカップをこちらに差し出してきた。
「消耗品は大切にしないと、ね? コーヒー頼むよ」
それは“先生”達も一緒じゃないですか、と僕は言おうと思ったけど、どうせ言ったところで無言で「私らと君は違うのだ」とぴしゃりと言われてしまうのだろう。
「私らは幽霊なのだから」と。