誰かが近付いてくる足音がした。
もう俺しかいないこの薄暗い牢獄に、その足音は皮肉な程に良く響いた。
だってもうあの子に逢えない。
だってもう約束を果たせない。
だってもう帰れない。
どうせ看守の足音だろう。ここもすぐ通り過ぎるに決まっている。そんなことに興味はない。俺は……。
俺は?
「……!」
息を呑む声が聞こえた。ふと、檻の出口を見ると、一人の男が驚いた表情で鉄格子越しにこちらをみている。男の姿がよく見えなかったので、気だるい体を動かした。男の顔を見上げたら目が合った。――銀髪に、緋色の瞳。この男は……。
と、急にその男は血相を変えた。横を向いて、
「オイ!」
と、誰かを呼んだ。
「オイ! 聞いてんのか坊っちゃん?!」
そう言うと、すぐにまた違う足音が近付いてきた。
「聞こえてますよ。それに私は“オイ”じゃありませんし、“坊っちゃん”という名前でもありません――?!」
その足音の主もまた、こちらを向いて硬直した。茶色っぽい髪に紫色の瞳。妙に身なりが良い男だ。
「何で、彼が……?!」
身なりの良い男が呟く。何のことかさっぱり分からない。
その横で、身なりの良い男とは実に対照的な、銀髪に緋色の瞳の男が、ちょうど通りかかった看守を呼び止めていた。呆然としている身なりの良い男をよそに、緋色の瞳の男は看守から鍵を受け取って、こちらへ近付いてきた。
身なりの良い男が、ハッとして緋色の瞳の男の肩をつかんだ。
「ちょっと貴方?! 何をしようとしているのですか?!」
緋色の瞳の男は、さらりと、
「あ? 見て分からねえか、出してやるんだよ」
と、答えた。
「なッ……!」
その一言の間に、緋色の瞳の男は檻の錠に鍵を差し込んだ。乾いた音。
悲鳴のような音と共に、檻の扉が開いた。緋色の瞳の男が入ってくる。男は手を差し伸べて、俺を
「×××××」
と呼んだ。
え? 何、言、って……?
次の瞬間、全身から力が抜けて、視界が横に吹っ飛んだ。
「×××××?!」
また同じ名前で呼ばれた気がした。二人の男が、いっそう表情を厳しいものにしてこちらへ駆け寄って来た。緋色の瞳の男に支えられ、体を揺すられる。
「×××××?!」
「×××××!」
*
「……、ルートヴィヒ!」
名前を呼ばれて目が覚めた。その事実で、今まで自分が居眠りしてしまっていたということに気付く。――周囲を見回す。
さっきまで会議が行われていたはずの部屋は、既に薄暗く、俺の他には銀髪に緋色の瞳の男――兄さん――と、茶色っぽい髪に紫色の瞳の男――オーストリア――しか居なくなっていた。二人と目が合う。何やら心配そうな表情でこちらを見ていた。
「大丈夫か?」
兄さんが訊いてくる。
「うぁ、ああ……」
口を開いたら寝惚けているような声が出た。通じているか心配だったが、
「大丈夫そうですね」
と、オーストリアが返事をしてくれた。
「なんだ……、居眠りしているな、って思ってたら急にうめき出すから心配したんだぞ!」
と、兄さんが頭をかかえながら言う。
……そんなにうなされていたのか、俺は。
「……まあ、とにかく。ルートヴィヒも疲れているようですし、貴方達も早く戻ってお休みなさい」
オーストリアが、今日の会議で使用した書類をそろえながら言った。兄さんに肩をつかまれ、
「そういうことだ、ルッツ! さっさと部屋戻って寝ようぜ!」
さっきと打って変わって陽気な様子で言われた。そのまま勢い良く、ドアのところまで引っ張って行かれる。
「ちょッ……! 兄さん! 痛い!」
ドアの開く音がした、その時。
「――ああ、プロイセン」
オーストリアが兄さん――プロイセン――を呼び止めた。兄さんは、怪訝そうな表情で、オーストリアの方を向いた。眉間にシワが寄っている。
「ンだよ?」
「会議の件ですよ。忘れていませんか?」
兄さん達の会話の内容が、難しいのか、居眠りしていたせいなのか、よく分からない。
「たった数十分前のことだぞ? 忘れるかよ」
「では、“決定事項”のことも忘れてはいませんよね?」
兄さんの表情がいっそう厳しくなる。
「……ああ」
そう言うと、部屋の外へ連れて行かれた。
一瞬だけ、振り返って会議室の方を見た。オーストリアが立ち上がってこちらを見ている。よく見ると、オーストリアも同じくらい厳しい表情をしていた。