こんなことになるなんて思っていなかったと、自分の脚に開いた穴と戦友の死体を見比べて思った。
僕が兵役を終えたのが二〇〇六年の暮れだから、半年程前のことだ。僕はドイツ連邦軍の一員として、アフガニスタンの北部に派遣されていた。国際治安支援部隊の一員として、復興事業従事者を警護するためだ。
アフガニスタン北部は英米軍が駐留する西部より治安が良く、また反戦を標榜するドイツの方針もあって、まあ比較的安全に任務を終えることが出来るだろうと、その時の僕は思っていた。
甘かった。どうかしている、と今の僕は思う。ここは戦場だ。戦場に安全もクソも無い。警護任務なんだから、襲われる可能性があるってことじゃないか。
その認識をまだしていなかったことを後悔したのは、九ヶ月の兵役を半分以上終えた頃。
その日も、僕はライフルを小脇に抱えつつ、退屈半分に任務にあたっていた。
昔から『待機と退屈の時間が長く、ごく短い恐怖の時間が時々ある』というありふれた言い方があるけど、それは結構的確な表現だ。西部はどうか知らないけど、こっちはかなり安定した状態で、攻撃を仕掛けられたとしても普通の銃火器が使用されるし、開始と終了が割とはっきりしているから、この表現は尚更しっくりくる。
けど、僕の場合は待機と退屈の時間は長かったが、恐怖の時間がごく短いという保証は無かった。
最初に銃弾が発射されるのを聞いてから、近くに居た戦友が倒れるまでの時間は、ほぼ同時だった。
戦友が倒れる音を聞いた時、僕の目線は一瞬でそこに釘付けにされた。
戦友はライフルを抱えたまま、背中から尻餅を着くようにして倒れた。被っていたヘルメットは勢いに任せて、そのまま頭から離れて落ちる。僕は、彼の腹が既に鮮血で以って真っ赤になっているのを見た。僕は意外に冷静な気持ちで、ああ、撃たれたのは肝臓かな、とか考えていた。
「おい、どうした――……な」
戦友が撃たれたのに最初に気付いたのは間違いなく僕だが、口や体がちゃんと動いて働いたのは、さすが、僕らの隊の士官だ。士官は倒れた戦友を抱えると、ドラマでもお決まりのように「衛生兵! 衛生兵は居るか?!」と叫んだ。大量出血しているし、きっと撃たれたのは肝臓だから当然のことなんだけど。撃たれた当の本人は、撃たれたことを認識出来ていないのか、焦点のはっきりしない目でぼけっと虚空を見つめながら、穴の開いた腹を触っている。
けど、銃撃はそれでは終わるわけがない。既に構えている者も居たが、僕は騒ぎに気を取られて一瞬準備が遅れた。
それが僕の運命を分けた。構えようとした瞬間にはもう僕の左脚に穴が開いていた。電撃が走ったみたいに目の前が痛みでちらつき、衝撃で脚を掬われる。横倒しになって、僕は身体を硬くなった地面に打ち付けた。
「ああああああああああ――!!」
撃たれたことを認識した途端襲ってきた痛みの奔流に、僕はライフルを手放して撃たれた左脚を抱えて叫んだ。幸いにも先に倒れた戦友よりも軽傷だが、そんなことはこの際どうでも良い。戦友は自分の制服どころか、自分を抱える士官の制服や地面まで真っ赤にして、しかも息を荒くしていたが、僕の頭のキャパシティは自分のことでいっぱいだ。とにかく赤ん坊みたいに絶叫する。
「大丈夫か――」
もう一人の戦友が喚く僕に近寄って来た。が、
「ッひ……!」
僕は半ばパニック状態だった。彼の差し伸べた手をバシッと弾き返し、僕は暴れる。
「誰かあいつを抑えろ! 後方に連れてけ!」
と士官が叫ぶのが聞こえた。その命令に、隊の戦友達が僕に寄ってたかって来る。僕にはそれが味方などではなく、むしろ敵よりも恐ろしい、どでかい影に見えた。
「嫌だ! 僕に触るな!!」
駄々っ子みたいに叫び、暴れる僕。戦友達はそれに構わず僕を抑えつけ、抱えると、後方に引っ張っていく。
撃たれた戦友はぐったりして、瞳の光は既に無かった。スーパーマーケットの魚介類のコーナーで売っている、シュプレー川の魚みたいな目で彼が僕を見ていたのが、目に焼き付いて離れない。
後方からやっと衛生兵がすっ飛んで来たみたいだが、もう遅いだろう。実際、僕が彼を見たのはこれで最後だった。
僕がその場面で覚えているのはここまで。その後、怪我の治療中に戦闘ストレスを起こして治療期間が延長された覚えはあるけど、よく覚えていない。兵役を終えた後にADHDを発症して、そのフラッシュバックの映像に良くも悪くもかなりの数の思い出達が上書きされ、掻き消されたからだ。
それは、僕がその兵役を終えた半年後、二〇〇七年の中盤に差し掛かった頃。
再就職――兵役を就職と呼ぶならの話だが――は持病のせいで当然失敗続きだ。それを打開するべく病院に通うわけだが、そうなると通院費がかかる。そしてドイツの医療費は三ヶ月ごとに十ユーロ払うのが決まりだが、それでも無職には結構響く。ドイツは社会保障は整っていると言われている国だけど、あまり頼りたくないのが心情だ。となれば、入用なのは生活費。ここで再就職の話に戻る。簡単に言えば悪循環だ。僕はどうしようもなくなって、ここのところは大概の場合は自宅で腐っているようになっていた。
分厚いカーテンを全て閉めきった暗い部屋。最近は窓も碌に開けていなかったせいか、充分に換気されておらず篭った空気は、僅かながら湿気を感じる。電灯はあるが、使っていない。明かりと言えば、カーテンの隙間から漏れる眩しい日光くらいか。テレビのニュースは五月蝿いから点けない。誰もこの部屋、この家には入れたことがない。ここが僕のテリトリーだ。
全ての始まりを告げる電話は、その日、平日の昼間だというのに自宅の寝床で大の字になって寝ているところに掛かって来た。
枕元に置いていたシーメンスのケータイが、無理矢理に現実に引っ張って戻す。睡眠薬で以ってやっとありつけた貴重な睡眠時間が吹っ飛んだことに苛立ちながら、僕は身を起こし、倦怠感を振り払いつつ電話に出る。
「――はい、アルベルト・シュミット……」
『よう! 元気だったか?!』
眠気を吹っ飛ばし切れていない声を絞り出す僕とは対称的に、相手の声は明るく、耳から反対側の耳まで突き抜けるような大音量だった。あまりの声量に、思わず僕は顰め面と共にケータイから耳を離す。
「エルンスト・フランツ大尉殿……お疲れ様であります……」
何がお疲れ様だよ、と自分に突っ込む。
エルンスト・フランツ大尉は僕の兵役時代の上官の一人だ。兵役中も僕ら部下の面倒を見てくれたりしたものだが、こうして兵役を終えた今でも世話を焼いてくれる。上司の鑑と言えばその通り。
『何だ、元気は無いようだな?』
「当然です……」
僕は上司の言葉に半ば億劫に答える。エルンスト大尉は「ははあ」と、見透かしたような声を漏らす。
「貴様のことだ、どうせ仕事が見つからないとボヤいていたのだろう?」
僕は「その通りです」と答える代わりに、苦虫を噛み潰したような声を出す。大尉は笑っている。
『今日はそんな貴様にぴったりの仕事を紹介してやろうと思ってだな』
「はあ」
僕にぴったりの仕事なんてあるわけないだろ、という反論は飲み込んだ。相手が元上司である手前、取り敢えず聞いておこうと思ったのだ。エルンスト・フランツ大尉はその得意げな笑い声で、
『宜しい! そこまで言うのなら聴かせてやろう、アルベルト・シュミット!』
と言う。――そこまでも言っていない。
だが、急にその『僕にぴったりの仕事』を紹介する段になって、大尉の笑いはひそひそ声に変わった。僕は突然、大尉の声の調子が変わったものだから、不審に思うという意味でそれに集中した。大尉は周囲を見回すなりしたのか、暫く間を置いた後、
『――〝地下室〟勤めだ』
「『〝地下室〟勤め』?」
僕はその言葉に眠気が覚めると共に、耳を疑った。僕はいつの間に声を大きくしていたのか、大尉の「しっ」が飛んで来る。僕は声を低くしつつ訊ねる。
「〝地下室〟って、あの〝地下室〟ですか?」
『そうだ、『あの』〝地下室〟だ』
僕達が今話題にしている〝地下室〟というのは、大概の人々が思う地下室とは意味合いが違う。
エルンスト・フランツ大尉は念を押すように言う。
『このドイツ連邦共和国の政府機関の〝地下室〟だ』
この国の政府機関の〝地下室〟。それはドイツ人の間ではもっと特別な意味合いを持つ。ベルリンにある政府機関や歴史的建造物の地下に関する噂――あるいは都市伝説――はこの国に住む者なら殆ど知っているくらい、ちょっとした語りぐさとなっているのだ。
いわく、『ベルリンの地下施設には、旧体制によって蘇らせられた過去の偉人が棲んでいて、密かに国家に貢献している』。
「あの話は本当なんですか?」
僕はエルンスト・フランツ大尉に訊いた。
「あんな都市伝説、嘘っぽいじゃないですか」
『意外にそうでもないぞ、シュミット』
そう答える大尉の口調は非常に真面目なものだ。大尉は再び声を顰めて言う。
『実を言うと、私は〝地下室〟勤めをしたことがある』
「本当ですか?!」
『ああ、その〝過去の偉人〟にも会った』
まさかの当事者からの告白だった。が、僕は未だに理解しきれずにいる。
『何はともあれ、環境は貴様ぴったりだぞ』
エルンスト大尉はそんな僕の気も知らず、仕事紹介を続けた。
『場所は静かな地下だし、まあ〝過去の偉人〟という人を相手にすることにはなるが、干渉しようと思わなければあまりこちらにも関わりを持たれずに済むだろう。おまけにいつでも人手不足だ、きっと歓迎されるぞ! それに――』
結局、僕はそこで働くと申し出た。理由は簡単だ。今までに無く条件の良いところだった、それだけ。
今思うと最悪の選択――とまではいかないものの、何故そこで首を縦に振ったんだ僕、とツッコミを入れたくなる。その理由も簡単で、恐怖の時間がごく短いかと言う保証は無かったからだ。
「君が、今日から配属になった新人か? ……ふーん。赤毛にソバカスってアイルランド人みたい」
〝地下室〟の責任者だという、しっかり彫りの深いヨーロッパ顔のくせに、黒くてサラッとしたアジア系みたいな髪型のその人は、僕を頭のてっぺんから爪先まで見るなり、ズバリ言った。そう言う彼は、どちらかと言えばベルリンよりもパリっ子の着ているような、上品な印象のMKオムのファッションスタイルに眼鏡をかけている。そこら辺に店があるようなC&Aを利用している僕とは酷い違いだ。あんまり並んで立って欲しくない。
何はともあれ、〝地下室〟は本当に人手不足だったらしく、簡単な書類審査とか面接を終えると即採用となってしまった。人手不足とは言え、何が何でも簡単すぎだと思う。
ドイツのビジネス界というのは三ヶ月ごとに回っているようなものなのだが、その期間内の真ん中に割り込んで入ったにも関わらず、僕は職を決めてしまったことになる。
とにかく、何度目かの再就職を果たした僕はベルリンにある国防省――ドイツ抵抗記念館と言ったほうが分かりやすいかもしれない――にある〝地下室〟の事務所に呼ばれたのだ。僕にとってはベルリンで地下と言えば旧体制の総統地下壕だったから、ちょっと意外なんだけど。
〝地下室〟の事務所は、国防省の狭い部屋を借り切って設置してあるらしく、デスクを必要なぶんだけ寿司詰めにして置いているようだ。実際には、そのデスクには自分のスペースに寄りかかるその責任者を除けば二人の事務員しか居なかったが。
僕は自分の容姿を馬鹿にされたような気がして言い返す。
「母親が北アイルランドの出なんです。それが何か?」
僕の言葉に、その責任者は目をぱちくりさせた。僕の言葉はそんなに意外だったんだろうか。責任者は眼鏡を外すと、書類と僕の顔を見比べて、
「いや……、アルベルト・シュミットって割としっかりしたドイツ人ぽい名前だったから、ちょっと意外だった、それだけ。ホラ、アルベルトってザクセン王の名前に居るだろ? 第一次世界大戦の時にドイツ軍艦の名前にもなった。でなきゃ、旧体制の高官。えっと――シュペーア? だっけ?」
くてっと首を傾ぐ責任者。若干中性的で若く見える顔立ちだけど、男がやっても可愛くない。一応はこれから僕の上か――じゃなくて、上司になる人なのに、いちいち腹が立つのはどういうことだろう。そもそも他人の名前をネタにしないで欲しい。それも本人の目の前で。
「僕自身の国籍はきちんとドイツ連邦共和国のものですし、このご時世、ハーフなんて何の問題も無いでしょう? それと、僕の親類には旧体制の支持者は一人も居ませんよ。僕を疑うのはご自由ですが、僕はあくまで仕事をしに来ているのです。上司とお喋りをするという業務内容だとは聞いていませんが?」
「うん、まあ、そうか。許して?」
無表情で興味無さげに返される。僕は短く溜息をついた。何なんだこの人。
「まあ、とにかく。これから同じ部署で働くんだ、宜しく。さっきも言ったけど、私はここの責任者で、今日から君の上司ってことになるテオドール・イェーガーだ」
「はあ。宜しくお願いします」
「で、君の仕事内容のことだ。――ところで、君は確かエルンスト・フランツ大尉の紹介らしいけど、どういう紹介だったの?」
「はあ」
僕はイェーガーから目線をぐるりと回して逸らす。
(……あれは言わないほうが良いな)
僕はそんなことを一瞬だけ考えて言った。
「『僕にぴったりの仕事だ』と」
「へーえ……あっそ」
どうでも良さげだ。正直なところ、退屈そうにしか見えないが、ただ説明は割かし生き生きとしていた。
「君にぴったりかどうかは知らないけど、君にはこの国防省の〝地下室〟で〝過去の偉人〟達の秘書兼世話係になってもらうことになる」
簡単だろ? と、イェーガーは言ってこっちを見る。そう言われても、僕はそれが簡単なのか判別出来る材料が少ない。僕が疑問符を浮かべていると、イェーガーはそれを知ってか知らずかこう言った。
「とりあえず、君の仕事場に案内しようか。――この日射は結構堪えるだろうけど、外に出て、建物の裏に回ろう」
言うなり、イェーガーはとっとと事務所の勝手口から外へ出て行ってしまった。僕もそれに続くが、彼が言うのが気になって久方ぶりに天を仰いだ。なるほど、今日はベルリンでも数少ない快晴だった。
僕がイェーガーに追いつくと、彼は建物の正面を貫く通りのほうを指差した。
「じゃあ、そこのシュタウフェンベルク通りに出て。そっちのライヒピーチューファー側じゃなくて、ジギスムント通りの突き当りからのほうから回ろう。そのほうが早い」
そう言って、イェーガーはとっとと正面の大通りに向かって歩き出した。僕も遅れないようにして追いかける。
イェーガーの言う通り、ジギスムント通りとシュタウフェンベルク通りがぶつかるT字路に辿り着くと、国防省の建物のほうのブロックはほとんど駐車場なのか更地なのか分からない土地になっている。イェーガーはそこのブロックに入る小路に入ると、国防省の建物の輪郭に沿って歩く。そうして建物の裏側に回ったところで、正面に林が見えてきた。
「そこの林の近く。小屋があるでしょ? あれが国防省の〝地下室〟の入り口」
言われて、僕はそこに林と建物で以って目立たないようにされた小屋があるのに気付いた。外装は他の建物に合わせて造ってあるようだが、唯一、その小屋の戸に掛けられた南京錠が錆びてボロボロになっているのが浮いて見えた。――イェーガーはそれを久しぶりに見たのか、「うわあ」とショックの声を漏らす。
「何でこんなに古くなるまで放置しておくの……信じられない」
そう言いつつ、上着のポケットから持参した合鍵を取り出して入れようとするイェーガー。
「あの人達は気にしないのか……?」
イェーガーはぶつぶつと文句を言いながら、錆びた南京錠の鍵穴と格闘している。錆びすぎて鍵を入れるだけでも一苦労のようだ。
けど、〝地下室〟の責任者なら錠前の錆び具合くらい把握してるんじゃないか? 僕がそう思ったのを察したのか、イェーガーが言う。
「私はいつもここに来るわけじゃないから」
イェーガーは南京錠の鍵穴に力尽くで鍵を突っ込もうとしている。
「ベルリンの〝地下室〟はここの他にも幾つかあって、いちいち全部回っていられない。主に私が居るのは連邦議会の〝地下室〟だし」
「議事堂の地下にもあるんですか」
僕が驚いていると、イェーガーは付け加えて、
「あと、ここには皇太子宮殿の〝地下室〟から通って戴いている〝偉人〟も居るし、他にも〝地下室〟は確保してる」
僕もここだけの〝地下室〟に構っていられないということなんだろうか。出来れば一つの場所で腰を据えて仕事をしたいんだけど――、と僕が思っていると、イェーガーはこっちを見ずに言った。
「まあ、君はここの〝偉人〟達の心配だけしていれば良い。それに、〝心配〟と言う程仕事もキツくはないはず。ありがたい事に、彼らには多少気を遣ってもらえるし」
そんなことを言っている間に、鍵をやっと突っ込んで開けられたらしい。重々しいがちゃん、という音と共にイェーガーが錠前を戸から外す様子が見えた。戸は格闘を強いられた錠前に反して、簡単にスライドされる。
「立て付けは良いんですね」
思わず漏れた感想をイェーガーは気にする様子は無かった。代わりに、先程の錠前の鍵を手渡される。――少し重い。
「この錠前は早いとこ取り替えることにするが、暫くはこの鍵を使って。ここの担当になる君に預けるから――分かった?」
彼の確認に、僕は首肯する。イェーガーは「良し」と言うと、「あと、これも」と言って、懐から鍵よりももっと大きくて重いものを取り出した。僕はそれを受け取ると、受け取った物の重大さに、思わずそれを凝視する。
――ドイツ軍制式拳銃、H&K USP P8。
僕は言葉を絞り出すことも出来ないまま、イェーガーを見た。渡した側のイェーガーは至って冷静、それどころか冷酷な表情をしている。
「これは〝地下室〟勤めの者なら、軍人と同じように携行しているから」
そう言って、イェーガーは自分の懐からもう一丁同じ拳銃を取り出した。僕はどきっとするが、それはすぐに引っ込んだ。イェーガーが僕にも早く仕舞えと勧める。
「使い方は知っているだろう。〝地下室〟内外で、〝地下室〟に害をもたらす者が居たら――問答無用でぶち殺せ」
冷酷な最終宣告じみた命令を言われ、首を縦に振りつつ心臓が左胸で暴れるのを感じる。
「勿論、基本法や法律に反するようなことはするな」
僕は自分の胸ポケットに、一挙に降り掛かった責任と共にどす黒いそれを仕舞う。イェーガーはそれを確認して、
「じゃあ、どうぞ?」
と、〝地下室〟の入り口に足を踏み入れた。
〝地下室〟の入り口の先は階段になっており、それを降りていくと湿気や土やコンクリートの匂いのせいか空気感が変わった。地上階と建物が造られた時代が違うのも、壁の色合いや塗り方ではっきり分かる。地下は旧体制の頃に造られたものだと、否応無く思い知らされた。だが、それに加えて僕が思ったのが、何となく雰囲気がアウシュヴィッツやテレジーンのような強制収容所や監獄、もしくは要塞のようだということだ。
僕は一口息を吸い、ここがどういう使い方をされてきたのだろうか、ということを考え、ゾッとして噎せた。吐き気を抑える代わりに強烈な咳をする僕。
「大丈夫か?」
イェーガーが気を遣っているとも思えない、本当は面白がっていそうな建前みたいな言葉を言う。僕はとりあえず「平気です」と返す。イェーガーが小さく溜息を着くのが聞こえた。
「ここは溜まった地下水の排水施設があまり整っていない。だから利用頻度が少ない通路や部屋は水が溜まりやすくて、その分湿気が酷い。換気はされているはずだし、職場自体の環境はそれなりに整っているから我慢して。あそこは度々改装されてるし」
階段の下に広がる通路は、ちょっとした心霊スポットにも似た雰囲気を持っていた。電灯のスイッチを入れても、それがちゃんと点いたのは階段付近とそれからしばらく先の距離だけで、そこから向こうはドロっとした不気味な闇が支配している。
「変なところに足を突っ込むなよ」
イェーガーが言った。
「下手に足を突っ込んだら水溜りだった、なんてよくあるから」
「はあ……」
部屋の改装が出来たのなら、排水施設も造り直せないのだろうか。後で具申しておこう。
そんなことを思っている間に、イェーガーは通路の一番手前にある扉の前に居た。彼がドアをノックする。
「君の職場はここだ、アルベルト・シュミット」
言われて、背筋が伸びる。イェーガーの右手がドアノブを掴んで捻り、ノブの機構ががちん、と動く音がした。イェーガーが部屋の中に向かって叫ぶ。
「失礼しますよー」
「入ればー?」
部屋の中からは、間の抜けた少年のような、けれど、もっと人生経験を積んだような老人のような声が返ってきた。イェーガーはその声が終わるのを待たずにドアを押し開く。イェーガーの「来い」というハンドサインに促され、僕も部屋に入る。
部屋の中は、僕らがさっきまで居た地上の事務所と変わらない様子が広がっていた。地上と同じように狭い部屋にデスクを必要なぶんだけ寿司詰めにして置いている。違うのはここが地下であること、あとはちょっとした机の配置とか、人員くらいだ。
そこには四人の男が、それぞれのデスクに着いて書類の山を無造作に捲ったり、肘を着いてノートパソコンをぼけーっと見たりしていた。難しい顔をしてケータイを弄っていたり、澄ました顔で本を読んでいる者も居る。
(この人達が、〝過去の偉人〟……?)
ぶっちゃけ、そんなふうには見えなかった。皆、外見的は多少の差はあるが二十代前後といったところだし、世間的に言われている都市伝説とはかなりかけ離れたイメージだ。仕事を堂々とサボタージュしている大卒の若者と言ったほうが、まだしっくりくるだろう。
イェーガーはその光景に慣れているのか、特に気にする様子も無く、僕を放置して書類を捲っている男の元へ歩いて行く。
「書類に全て目は――」
「通したよ」
イェーガーの問いに、その男は顔を上げて答える。
髪の毛はぼさぼさの長髪なんだか短髪なんだか分からない長さだったが、適当に分けたと思われる前髪の間から、にこにこしていて、いかにも温厚そうな顔が見えた。けど、その人の第一印象で最も印象的――というよりも衝撃的――だったのは、そこそこ温度が一定に保たれている上に、湿気もそんなに酷くない部屋に居るのに、黒いスーツ上下と、それに合わせたであろう冬に着るような黒いコートを肩に掛けていたことだ。そもそも、この部屋に居るほとんどの人間が黒いスーツを着用していて、それに比べたら若干ラフな格好で来てしまった僕のほうが浮いているという状態だったが、それを差し引いてもこの人の姿は少し浮いて見える。
イェーガーは顔色一つ変えずに、けれど呆れを少し滲ませて訊ねた。
「どうせ、今日の仕事も早々に終わったんでしょう? ボルデナウ卿」
「うん、終わり」
ボルデナウ卿と言われた彼も至って優しげに答える。
「今回も君達の期待には応えられっ――応えかねるよ」
吃った? イェーガーは気にせず続ける。
「戦史のチェックも?」
「無修正で」
「了解しました」
ひと通り会話を終えたのか、イェーガーは渡された書類の束を持ってこちらに戻る素振りを見せた。それを追うボルデナウ卿の目線と、僕の視線が合う。ボルデナウ卿の目が丸くなる。
「イェーガー」
「はい?」
ボルデナウ卿がイェーガーを呼び止めた。イェーガーは振り向いてボルデナウ卿を見る。ボルデナウ卿は僕のことを見たまま、イェーガーに訊ねた。
「彼、お客?」
その声に、部屋中の視線が一斉に僕に向いた。僕はぞくりとして、背中を尺取虫が通るような感覚に襲われる。代わりに冷や汗が頬を流れ落ちた。イェーガーは「ああ……」と声を漏らして言う。
「今日からこの〝オフィス〟の配属になった、アルベルト・シュミットです」
自分の名前を呼ばれて、僕は背筋をぴんと伸ばした。ボルデナウ卿は表情を緩めて、
「へえ……君、新人?」
と訊いてきた。
「はい」
僕は緊張しつつ答える。
「宜しくお願いします」
「やった! 新人だ!」
そう言って、子供のようにびょんびょん飛び跳ねながらやって来たのは、さっきまで生気の無い目でパソコンの画面を見ていた人だ。
こうして良く見ると、かなり整った顔立ちで、黙って静かにしていれば歳相応にクールな印象を与えそうだ。けれど、それだとふわふわした鳶色の髪の毛とアンバランスな感じにも取られるだろう。
そんなことを思っていたら、いきなり抱きつかれそうになり、僕は身構えつつ後ずさった。本当に子供なんじゃないだろうか。でも彼はそれを気にせず笑顔で言う。
「今までここの専属が居なくて不便だったんだよね! これから宜しく!」
彼から握手を求められ、僕は戸惑った。
(握手は嫌だなあ……)
それでも僕は彼に満面の笑みを向けられて、必死に右手を差し出す努力をする。その時、
「ブリュール! 落ち着け」
横から叱咤の声が飛んできた。見ると、さっきまでケータイと格闘していた人が眉間に皺を寄せてこちらを見ている。片手で未だにケータイを鷲づかみしているところを見ると、まだそれは続いていたらしい。彼は黒い髪を掻きながら言う。
「いちいち子供みたいに騒ぐのはやめろ、腹が立つ」
「まだ終わって無かったんですか、ナイトハルト卿」
ブリュールと呼ばれた彼はさっきとは打って変わって冷静な表情になって答えた。
「メール打つのに何分かかってんですか」
「お前が異常なんだよ」
ブリュールさんは僕との握手を忘れて、ナイトハルト卿のメール作成作業を手伝いに行ってしまった。僕が内心で握手をせずに済んだとホッとしていると、
「――若者は元気が有り余っていて羨ましいね」
と、かなり近くから声がした。ドアのすぐ近くのデスクで読書をしていた彼だ。少し長めの金髪をポニーテールみたいに縛った彼の目線は相変わらず本の文面に落ちていたが、確実に耳は部屋での出来事に向いていただろう。彼が椅子ごとくるりと回ってこちらを向く。
「そう思わないか、若者よ」
あなたも十分若いのでは、と言おうと思ったが、その言葉は彼の顔と目を見て引っ込んだ。金髪碧眼でつぶらな瞳という、傍から見ればファンタジーに出てくるような王子様みたいな美男子だが、その顔には激しく引っ掻いたような傷が複数刻まれており、目は憂いで濁っていた。これでは白馬の王子様というより、億の帝王の息子だ。
それに驚きの表情を隠し切れない僕を気にも留めず、彼は傍らにあった空のコーヒーカップを僕に押し付けてこう言った。
「とりあえず、私のことはフリッツとでも呼んで。――コーヒー、おかわり」
いきなりの初仕事に戸惑う僕の後ろを、イェーガーが通り抜けて行く。
「では、後は宜しく、アルベルト・シュミット」
大した引き継ぎも行われないまま、イェーガーはボルデナウ卿から預かった書類を持って去って行った。ドアの音が虚しく響く。
それにも構わず、フリッツさんがおかわりを急かす。
「コーヒー。早くおかわり持ってきて。砂糖は二個ね、ミルクは抜きで」
「あ、はい……」
僕があたふたする一方で、ナイトハルト卿がやっとメールを打ち終えたらしく、達成感にデスクに突っ伏しているのを見てブリュールさんが大笑いしていた。さらに、それを見てボルデナウ卿がにこにこ笑っている。僕はそれを見て、仕事の選択に失敗したのかと困惑していた。
とは言え、後々ここからの光景を鑑みても仕事の選択うんぬんは失敗したとも、だからと言って成功したとも思えない。けれど、これは言える。悪い解釈をするなら、これはあの戦場で撃たれてからの、恐怖の時間の続きであり、始まりだったと。