自動車が、近くの大通りを通過する音がした。
正確には、もう既に数え切れない程、それは聞こえていた。ご近所に住んでいるおばあさんは、きっと気難しい顔で庭先を掃除しているところだろう。
僕は休日にかまけて、そんな時間になっても、ベッドの上で横になっていた。タオルケットを頭から被り、その隙間から、カーテンから漏れる朝日の細い光を意味も無くじっと凝視する。凝視しながら、あの〝地下室〟に勤め始めてからのことを思っていた。
あまりに多くのことが、ここ数日で起き過ぎた。
普通ではない職場を紹介され、普通ではない人々に出逢い、普通ではない出来事に遭遇した。
僕の心はそんなに多くのキャパシティは備わっていない。実際のところ、未だに心の震えが治まっていないのだ。心臓がドキドキしている。
――落ち着かない。
タオルケットの端を握り締め、僕は深呼吸をしながら、その鼓動を感じている。瞼を開閉し、網膜に焼き付いて取れない数日間の記憶を何とか見ないように必死だ。けれど、それも諦めかかっている。
(あの人達のせいだ)
分厚いカーテンを締め切り、ドアを堅く閉じた寝室には、私情以外のものは持ち込んだことは今まで無かった。ここは僕の安全地帯だ。ここは外の世界とは違う。他人は絶対に僕に手を出せない。けれど、あの〝地下室〟の人々は、僕の安全地帯にまで押し入っていた。あの人達の笑顔が、怒った顔が、憂鬱そうな顔が、必死に何かを守ろうとする姿が、僕の心に刻み込まれてしまっている。それがどうしようもなく、僕の心を揺さぶるのだ。
(離れろ、離れろ、離れろ)
ぎゅぎゅぎゅ、とタオルケットを頭に強く押し付ける。
――人が肯定したと思ったらこれだよ!! わけ分かんない――
(離れろ! 離れろ! 離れろ!)
蘇る記憶を拒むように、僕は枕の下にタオルケットごと頭を突っ込んだ。
――介入して来ないなら名前を呼ぶ価値なんて無いと判じているんだ、あれは――
――人間関係に誤魔化しが効くと思ったら大間違いだ、ガキめ――
(離れろ! 離れろよ、この野郎ッ!)
枕の両端を掴んで、隙間を閉じる、が。
――つまり、きみはどっちでも良いということではないか? 私達が本物の偉人だろうが、はたまた偽物でも――
(ああ――)
タオルケットと枕の隙間を埋めるほど、記憶の奔流を拒めば拒むほど。
――こんなものを……その、そこの貴重な消耗品と一緒くたにしてくれるなよ馬鹿馬鹿しい……! ――
――この、得体の知れない……薄汚れて……使い古した……欠陥品と……一緒くたにして――
――どういうことだ――どういうことだと言うのだ――どういうことだか説明してくれないか、イェーガー?! ――
(ああ、もう)
深く刻み込まれたそれは、手を伸ばし、目を開けて、夜明けの光のように僕を照らし出す。
――その貴重な消耗品を亡くすくらいなら、私の残機など喜んで消費しよう――
僕は枕を押さえる手から力を抜いた。枕の下からずるりと頭を引っこ抜き、被っていたタオルケットを退けて起き上がる。ばさりとタオルケットが落ちて、僕の脇でくしゃくしゃになった。横目で枕元のシーメンス・ケータイを睨む。
(ああ、もう。畜生)
僕はケータイを引き摺るように寄せると、アドレスのリストを表示する――ふと思い出したのは、イェーガーの剣幕だ。
――『〝地下室〟内外で、〝地下室〟に害をもたらす者が居たら問答無用でぶち殺せ』とは言った――だが、『基本法や法律に反するようなことをしても良い』とは言っていないぞ、アルベルト・シュミット! ――
(まさか、〝地下室の偉人〟達のことを調べることも、基本法や法律に反することなんだろうか)
他人のためにこんなことをしようと思うなんて僕はどうかしているんだろうか、とは思わなかった。きっと、もう既にどうかしてしまっていたんだろう。ケータイを掴んだ僕の右手は、イェーガーの名前を検索していた。面倒だが、不安要素を取り除いてからのほうが良いだろう。
電話発信をしようとして、ふと、この部屋が暗いことに気付いた。電灯も点いていない。明かりと言えば、カーテンの隙間から漏れる日光くらいだ。
僕はケータイをベッドの上に置くと、寝床から降りてカーテンに近付き、それを一気に全開した。眩しい朝日が、僕の寝室を真っ白に染める。だが、目を眩ませている暇は無い。僕は外行き用の服に着替えると、上着のポケットに財布とケータイを突っ込んで部屋を飛び出した。自転車の鍵も忘れない。
庭先を掃いていたおばあさんへの挨拶もそこそこに、僕はやっとケータイの電話発信ボタンを押した。イェーガーが出たのは少し早めの三コール目だ。
『何の用? アルベルト・シュミット』
いつも通りのどうでも良さげな口調に安心しつつ、僕は単刀直入に用件を話す。
「〝地下室の偉人〟達について、どうしても今訊きたいことがあります。あなたは今どこに居ますか?」
僕は自宅の玄関脇に駐めた自転車に鍵を差して回し、ケータイを肩に挟みながらチェーンロックを外す。イェーガーは仕事中とは思えない、これから遊びに行くような口ぶりで、
『今日は久しぶりに国防省に来てる』
と言う。
「今からそっちに行くんで、僕が着くまで居てくださいよ!」
『慌てなくていいから、落ち着いて来い』
僕は話し終えると、再びケータイをポケットにぶち込んで自転車に飛び乗った。
イェーガーは国防省の事務所にある喫煙室で、モトローラのケータイを片手にシガレットの煙草の煙を燻らせていた。そうとは思えないが、ヘビースモーカーなのだろうか。“地下室”で吸えなかった時と比べて、今の彼は思い切り悠々としているように見える。
僕が戸を叩いて来たのを知らせると、イェーガーは少し口惜しそうな顔をした。面倒そうに手招きをしたのを見て、僕は喫煙室に入る。彼は僕が脇に立ってもなお、ケータイでメールか何かを打つ手を止めなかった。
「休日出勤は感心しない。給料を余分に出さないといけなくなる」
もちろんケータイの画面に目を向けたまま、イェーガーはそう話した。
「いえ。質問を幾つかしに来ただけですので、終わったらすぐに帰ります」
「あっそう」
やっぱり、この人の話し方はどうでも良さげな感じだ。
いつも通りの口調を確認して、僕はイェーガーに思い切って訊ねた。
「あの、〝地下室の偉人〟達の過去について調べても支障は無いでしょうか?」
「え」
僕の発言が意外だったのか、彼はもう少しで吹かしていた煙草を、口からポロリと落とすところだった。危ない。僕はそれに驚いて思わず身構えたが、煙草は彼の歯茎に引っかかって事なきを得た。イェーガーはそれを摘まんで口から離すと、灰皿にぐりぐりと押し付ける。イェーガーは僕に向き直ると、眉間に微妙に皺を寄せて、
「どのくらいの過去? 〝蘇生〟する前? それとも〝蘇生〟前後?」
と訊き返す。イェーガーの目つきがあれ以来どうもおっかない気がする。僕は答える。
「〝蘇生〟する前です」
「ふーん――」
僕の答えに、彼は妙に納得したような、感心したような妙な表情をした。首をこくこく動かして、イェーガーは言う。
「なら、良い」
イェーガーの反応は予想に反してあっさりしたものだった。逆にキョトンとする僕に、イェーガーは続けて言う。
「別に個人的なことにいちいち文句は付けない。どうせ、これからの仕事の参考にでもするつもりなんだろ? もう充分、彼らの話題で沢山の本が書かれてるし、第一、今の彼らはそれらとはだいぶ別人だし」
う、と声を漏らす僕。
(それって、『調べても無駄』だということじゃないのか?)
「とは言え、それは私達の仕事への理解に繋がることだと思う。無駄にはならないだろうね」
そう言うと、イェーガーは懐からシガレットの箱を取り出し、そこから一本新しいものを抜くと、手慣れた様子で火を点けた。はー、と紫煙を吐き出す。
「とにかく、調べられるだけ調べてみることにします」
「そう」
僕は再び一服を始めたイェーガーを見て踵を返した。
向かうところはただ一つだ。
僕はこの前ブリュールさんとナイトハルト卿と訪れた時は門の前を通り過ぎただけだった、フンボルト大学の図書館に居た。
日光以外には年代物の電灯の光しか差さない薄暗い図書館の、さらに黴臭さが漂って来そうな歴史コーナーの巨大な書架の前で、僕は右往左往している。さすがはドイツの首都が誇る大学の図書館だけあって、ドイツ史とかプロイセン史というだけでどれを読めば良いか分からない量の本が山積みになっていた。
――これはさすがにやばいかも……?!
天井を突破して天まで届きそうな書架と、そこに入った本の山を前に、やばいと思う前に自宅にネット環境を整備しなかった自分を呪う。とは言え、高い通信料を叩くくらいなら、と導入を拒否したのも事実だ。ここは大人しくアナログな手段に頼ることにして、まずは、と目当ての情報の見つかりそうな黒い背表紙の本に手を伸ばした。
――セバスチァン・ハフナー著『図説プロイセンの歴史――伝説からの解放』。
落ちてきたものをキャッチするようにその本を掴むと、僕はそれを駅のキヨスクの雑誌の感覚でぱらりと開く。年を経てぱきぱきになった紙が、重力に任せて左右へ不規則に落ちていく。ふと、開いたページの一文に僕の視線が引き寄せられた。
――『他の国々は軍隊を持っている。しかしプロイセンは軍隊であり、軍隊が国を持っている』。
これは僕も知っている。フリードリヒ二世の時代に、ミラボーというフランス人がプロイセンを評して言った言葉だ。
これは僕の勝手なイメージでしかないかもしれないが、プロイセンという王国は今までのドイツの歴史が語るように戦争を多く経験してきた国家だったと思う。この大学の眼前に立つ騎馬像のその人であるフリードリヒ二世は、シュレージェン――今ではポーランドのシロンスクになっている――を手に入れるために、崩壊同然だったとは言え、同じ神聖ローマ帝国内どころか神聖ローマ皇帝の直接支配するオーストリアに戦争を一度ならず二度も仕掛けた。その約二世紀後には、〝鉄血宰相〟の異名を取るオットー・フォン・ビスマルクの主導で、ドイツ統一名目でオーストリアを始めとする他の多くのドイツ諸国やフランスと戦っている。まさに軍隊国家だ。
(ボルデナウ卿達が旧体制に“蘇生”されたと言うのなら、これが理由なんだろうな)
そんなことを思っていると、突然、自分のすぐ近くで足音が止まるのが聞こえた。
図書館でいちいち足を止めるのは良くあることだが、今回は別だ。何故なら、じっとこちらを見つめるような視線をも感じたからだ――ぐるりと周囲を見回す。
すると、僕の左側でダークブロンドのロングヘアの女学生が、珍しいものを見るような目でこちらを見ている。太いフレームの眼鏡越しに、鳶色の瞳がぱちくりと僕を見据えていた。
「――珍しい」
既に小脇に厚みを感じる本を五冊は抱えているその女学生が呟く。目線を軽くその本達の背表紙にやると、その全てが見るからに歴史コーナーの書架から持ち出されたものらしかった。全ての本のタイトルが人名か地名ばかり使っていたのだ。少し鼻に付く口調で女学生は続ける。
「やっと歴史学の興味深さと奥深さ、それに有用性将来性未来性その他諸々の価値に気付いたの? シュミット先輩」
「ルイーゼ」
そこに居たのは、僕が大学に居た頃の学部違いの――日々歴史というあやふやなことに挑戦している――後輩であるルイーゼ・ハルトヴィヒだった。
僕はルイーゼのいちいち刺々しい言葉に腹を立てないように気をつけながら答える。
「強いて言えば有用性。仕事で必要になった」
詳細についてはもちろん伏せた。けど、あながち嘘でもないから、悪いことは言っていないはずだ。ルイーゼは僕の開いたままの本の表紙を覗き見る。納得したような表情を見せてから、上品な雰囲気を漂わせるバイエルン・オーストリア語訛りの抜け切らないベルリン方言で一言。
「その本、人気よね」
「人気? この本が?」
僕は手元にある『図説プロイセンの歴史――伝説からの解放』を指して、ルイーゼに訊ねた。ルイーゼは首肯して、その本を僕の手に載せたまま、空いた手で作者紹介のページを捲る。――厳しくいかつい顔の男性の顔写真が現れた。
「この本が書かれたのは戦後の東ドイツなの。戦後のドイツでは東西関わらず、プロイセンというものを否定する傾向にあったわ。旧体制の源流はここにある、っていう考え方をしていたのね。西ドイツではコンラート・アデナウアーが『プロイセン気質』と呼ぶ概念を拒否していたし、東ドイツではフリードリヒ大王こそが軍国主義の権化だと教えるって政府が公式説明したのよ――ウンター・デン・リンデンの大王の騎馬像あるでしょ?」
ルイーゼが僕の顔をじっと見る。僕はと言えば、頼んでもいないルイーゼの怒涛の解説にぽかんとしていた。慌てて「う、うん。あるね?」と返事する。
「東ドイツ政府は公式説明の実証みたいに、一度あの像を取り壊したのよ」
「えっ?!」
僕の驚きに、ルイーゼは膨れっ面になった。何がそんなに不服なんだろうか。
「――シュミット先輩、出身は東ドイツのザクセンはドレスデンだって言ってたわよね? 知らなかったの?」
「知らないよ!」
僕は反論する。図書館内なのに、うっかり大声を出してしまった。周囲の視線が一瞬痛い。
けれど、知らないのは本当だ。ザクセン史について家族から聞かされたことはあったかも知れないけど、ベルリンのことについては聞かないし。第一、僕は今までの人生の大半をロンドンで過ごしてきたのだ。ハッキリ覚えているのがせいぜいイギリス史だけの僕が知るわけがない。
僕は小声で付け加える。
「――じゃあ、今建っているあれは?」
「建て直したに決まってるじゃない! 取り壊したのが一九五〇年、で、再建が一九八〇年よ。この本の初版が一九七八年なのだけれど、ちょうどその頃になってプロイセンへの再評価が運動みたいに広まっていたから、きっとそのこともあったのね。東ドイツはプロイセン領の形をほぼ引き継いでいたし」
「はあ……」
熱く語るルイーゼを前に、僕は何も言えなかった。唖然としている他無い。
――よくも、まあ。バイエルン人のくせにここまで調べる気にもなったよな……
僕は本の文面に目を落として嘆息する。ルイーゼはドイツ南部のバイエルンのミュンヘン出身らしいが、あそこは他のドイツ諸地域を纏めてプロイセン扱いして卑下していると有名なはずだ。それを超越して、他のベルリンっ子や歴史マニアと渡り合う程だからよっぽどだろう。ここまでくると呆れを通り越して尊敬する。
ルイーゼは平然を装っているふうだが、ただ彼女の両目にきらきらと星が散っているのが見えた。なんだかんだ嬉しいのだろうか。僕はそんな彼女を見て訊ねる。
「今、暇?」
「強いて言えば資料の復習をするけど」
――多分、ここにある資料の本を読み返すんだろうな。
そうアタリを付けて、僕は彼女に言う。
「じゃあ、復習ついでにプロイセン史について教えてよ」
ルイーゼは何がおかしいのか、「はあ?!」という口で信じられないと言うような顔をした。僕は眉を顰める。
「何? 僕、何か変なこと言った?」
「いいえ――」
ルイーゼは驚きを通り越して感動した様子で呟く。
「あのシュミット先輩が、私にプロイセン史の教授を乞うている! あのシュミット先輩が! 私に!」
彼女の目が日本製コミックのそれのように輝く。発している言葉自体は大変不満だけど、彼女はすごく嬉しそうにしていた。
――ブリュールさんだったら狂喜乱舞しているところだろうか。
未だにブリュールさんの狂喜乱舞の様も、冷徹な表情もハッキリ想像しづらいけど。口の中で今の言葉をもごもごと繰り返し咀嚼するルイーゼに、僕は付け加えて言った。
「というか、ゲルハルト・フォン・シャルンホルストとアウグスト・フォン・グナイゼナウと、あとカール・フォン・クラウゼヴィッツの三人のことを教えてくれるとありがたいかな」
この言葉に、ルイーゼのテンションがもっとおかしくなった。興奮した様子で、「参謀本部という縁の下の力持ちな人達のことを! シュミット先輩が! 私に!」と呪文のように唱え出すルイーゼを僕どころか、近くに居た学生もがジト目で見始める。――ぶっちゃけ、ここまでプロイセンバカだとは思わなかった。
それでも、ルイーゼもさすがに周囲のジト目視線に気付くとそれを止めた。恥ずかしさに頬を染めつつ、僕に訊いてくる。
「えっと、ゲルハルト・フォン・シャルンホルストとアウグスト・フォン・グナイゼナウ、そしてカール・フォン・クラウゼヴィッツの三人について説明すれば良いのね?」
「ああ――うん」
ルイーゼに説明を求めて良かったのか、悪かったのか、良く分からなくなりつつある僕。ルイーゼはそんな僕の気も知らず、周囲の書架からそれ関連であろう本を探すと、僕に今まで自分で抱えていた本達を押し付けた。僕は押し付けられた本達とルイーゼの顔とを見比べる。さっきとは打って変わって、真実を探求する女学者の顔がそこにあった。ルイーゼが言う。
「それ持って、適当な席に座ってて」
そう言うルイーゼの表情が頼もしく見えた。
――本当に。こんな頼もしい表情は素敵だ。
ルイーゼが資料を持って僕の確保したテーブルに着いたのは割とすぐだった。ただし、関連本は多かった。
テーブルのど真ん中に山になった本達を上手くスペースの隅へ退けるのに四苦八苦しつつ、なんとか向かい合う自分達の顔が見えるように本を配置する。ルイーゼは既に息切れを起こしていた。
「ルイーゼ、大丈夫?」
「――ッ、平気よ!」
息を整えつつも笑顔で答えるルイーゼ。――本当に大丈夫なのか?
「まずそのゲルハルト・フォン・シャルンホルストとアウグスト・フォン・グナイゼナウ、そしてカール・フォン・クラウゼヴィッツ。この三人の関係からね」
と言って、彼女は話を始めた。
「この三人は十九世紀の前期、ナポレオン戦役で活躍した将軍達よ。ゲルハルト・フォン・シャルンホルストは当時兵站総監部と呼ばれた組織――今で言うところの参謀本部――で兵站総監をしていたわ。アウグスト・フォン・グナイゼナウはその先任将校として、シャルンホルストの後を継いで活躍したの。カール・フォン・クラウゼヴィッツはシャルンホルストが士官学校で教官をしていた時の生徒で副官ね。後々みんな親戚同士になっているくらい仲が良かったみたいよ」
――あの三人、元々仲が良かったのか。
和気あいあいとしている〝地下室〟の様子を思い出して僕は思った。ルイーゼは続ける。
「ゲルハルト・フォン・シャルンホルストは一七五五年生まれよ。出身はハノーファー近郊のボルデナウっていう村なんだけど、父親はハノーファー王国の騎兵隊の退役下士官で母親は自由農民。母方からの遺産相続が無ければ、確実に軍人にはなれなかったでしょうね」
――なるほど。ボルデナウ卿のあの名前は出身地から取ったものなのか。
地名から名前を考えるのはドイツ人らしいな、と僕は一人で納得する。
「シャルンホルストはその母方からの遺産を頼りにして、当時ハノーファーと国境を接していたシャウムブルク=リッペ=ビューケブルク伯領にあった士官学校に入ったの。彼が十八歳の時のことよ」
「えーと……シャウムブルク――リッペ――?」
「シャウムブルク=リッペ=ビューケブルク」
僕の半分の故郷であるグレートブリテンの正式名称もそうだけど、ドイツの領邦の名前はとにかく長い。繋げ過ぎにも程があると思う。
「そこでの教育が彼の軍事思想や考え方に影響を与えたって言われてるわ。グナイゼナウが後々そこを視察するんだけど、シャウムブルク=リッペ=ビューケブルク伯爵を、彼の伝記作家の前でべた褒めするのよ。『お前はまだ褒め方が足りない!』って感じに」
「へえ……」
ルイーゼが、そのことが書かれた資料を開いて、僕の前に差し出す。
――『あなたはリッペ伯爵をたいへん褒めておられるが、それでも彼の真価を十分に評価してはおられない。伯爵はあなたが思っておられるよりはるかに偉大な方だ……』。
グナイゼナウはシャルンホルストのことを尊敬していたんだなあ、というのが感じられる文だった。シャルンホルストの業績を挙げて、伯爵が居なければプロイセン軍をここまで改革出来なかったと、伯爵に感謝している。
僕は正面のルイーゼに目をやった――ルイーゼは目を伏せて、クラウゼヴィッツが書いた文章を纏めた本を捲っている。その中の一文が僕の目に飛び込んで来た。追悼文のような様子で書かれている。
――『彼は一七五六年十一月十日、ハノーファー領ヘーメルゼーのささやかな小作農の子として生まれた』。
――は? ルイーゼの言ったことと違うじゃないか!
僕がそれを覗き込んでいることに気付いたんだろう。ルイーゼが「何?」と訊いてきた。
「だって、ルイーゼの言ったことと違うなって」
「ああ――」
ルイーゼが大した問題では無いとでも言うように、きっぱりと言い放つ。
「これはただの、クラウゼヴィッツの勘違いよ」
――この子、偉人に対しても容赦無い。
「生年月日はさっき私が言った日付で合ってるわ。ヘーメルゼーっていうのは、シャルンホルストが四歳の時に引っ越した先の地名ね」
「はあ」
ルイーゼの辛辣な物言いにたじたじになるしかない僕。
「それで、クラウゼヴィッツはどういう人なの?」
僕の多少無理矢理な質問にルイーゼはハキハキと答える。本当に、彼女の脳のどこにこんな情報量のあるものが染み込んでいるのだろう。もしくは、これしか入っていないのかも知れないが。
「クラウゼヴィッツは、ハノーファー生まれのシャルンホルストやザクセンやヴュルテンベルクに仕えていた家系の出身だったグナイゼナウとは違ってプロイセンの出身よ。ただあんまりパッとしない身分だったのは他と一緒。クラウゼヴィッツは父親と自分の努力で士官学校に入れることになったんだけど、入学当初は苦労したみたい」
「なんで?」
僕はルイーゼに訊いた。ブリュールさん――クラウゼヴィッツの〝ニセ者〟 ――が、環境の変化程度で苦労しそうな人物には見えなかったからだ。
「簡単なことよ、先輩」
ルイーゼは至極当然なことを訊かれたように、肩を竦める。
「環境が合わなかったのよ。先輩は知り合いも居なければ成績も追いつけないレベルの学校に居たいと思うの?」
「――思わないね」
現代にも通じる、当たり前なことだった。余程自分の意志が強いか、社交的でもなければ、好んでそこに留まろうなんて誰が思うだろう。
「けど、そんなクラウゼヴィッツの味方になったのがシャルンホルストよ。シャルンホルストは祖国であるハノーファー王国に勤めていたんだけど、彼って元々の身分が低いでしょ? それで、もっと自分を出世させてくれる外国の軍隊の招聘に条件付きで応えることにしたの。それがプロイセン軍だったわけなんだけど、プロイセン軍に来て最初の仕事が士官学校の先生だったわけ。そこの一期生にクラウゼヴィッツが居たのね」
「じゃあ、彼らが出逢ったのは偶然――?」
「私なら運命と呼ぶわ」
ルイーゼはキッパリと言った。僕ならこんなファンタジーな表現は出来るだけ避けたいんだけど。
「だって、クラウゼヴィッツには元々才能があったみたいだし、シャルンホルストだってそんな原石を放置出来るような人じゃなかったわ。実際、彼らはすぐに仲良くなったもの。シャルンホルストはクラウゼヴィッツに対してかなりの親近感を持っていたみたいだし、クラウゼヴィッツ自身もシャルンホルストのことを『父でもあり、心の友でもあった』って夫人への手紙に書いてるのよ」
どれだけこの二人は相性が良かったんだろう。そんなことが起きるなんて、相当な運の巡り合わせが良かったとしか思えない。やはり運命というやつなんだろうか。こんな幻想的な表現を使わざるを得ないのは少し嫌だが、けれどこのほうがしっくりくる。
しかし、そういう照れ臭いことを奥さんに書いて送ってしまえるなんて、クラウゼヴィッツはすごいとも思った。でもそれだけ尊敬していたのだろうと思えば納得だ。
ところで、ここまででグナイゼナウが本筋に登場していないことに僕は気付いた。僕は再び資料を読んでいるルイーゼに質す。
「グナイゼナウは? 彼は士官学校の関係者じゃないの? 彼――」
「急かされなくても説明するわよ」
ルイーゼがぎろりと僕を睨む。その研ぎ澄まされた視線は、今の僕と場面に対して、きっとオーバーキルだった。心臓を刺し貫かれたような気がしたのだ。ルイーゼは本の文面に目を落としつつ、「とりあえず、学校の関係各所には居なかったわ」と答えた。
「彼はその頃、ポーランドやシュレージェンの守備隊付き将校をやっていたはずよ。簡単に言えば――そうね、ぶっちゃけ冷や飯喰らいの身、ってところかしら」
その事実に、僕は反射的に「うわあ」と声を漏らしていた。ルイーゼはこの声に顔を顰めた。
「何よ」
「だって、片や勉学の現場で仲間を増やして、その一方で冷や飯喰らいだよ? いくらなんでも温度差があるだろ」
「温度差くらいでぎゃーぎゃー言わないでよ、情けない」
僕は押し黙る。
「グナイゼナウは二十年くらいその状態にあったみたいだけど、その間ずっと彼は徹底的に軍事研究をしていたのよ。その点で言えば他の二人と一緒ね。――そして、その冷や飯生活は幸か不幸か破られたわ」
「何故?」
僕の問いに、ルイーゼは拳を握ってノリノリと思えるテンションでこう言った。
「ナポレオン戦役が始まったからよ!」
「――戦争が始まったのを喜ぶなんて、きみくらいだろうね、ルイーゼ」
僕が呆れると、彼女はムッとした表情で反論する。
「他人を過激派みたいに言わないでくれない?!」
「今のきみは十分に過激派じみてたよ」
「なんてこと!」
ルイーゼはショックを受けたように驚きの表情を浮かべた。背もたれにがたんと寄りかかり、天を仰ぐ。――そんなにショックだったのだろうか。僕には逆に今まで自分にそんな自覚が無かったということに驚きだ。
それよりも、僕はこれで説明が中断されるほうが心配だった。尻切れとんぼで終わらせられると、後がかなり大変だ。
僕は彼女を見やる。ルイーゼは顔を両手で覆い、天を仰いだまま、息をひゅーっとゆっくり吐いていた。僕はルイーゼがその息を吐き終わるのを肘をついて待つ。――彼女は意外に早く、がばっと元の姿勢に戻った。
「――まあ。私が過激派と勘違いされているのは置いておいて」
――立ち直り早いなあ。
ルイーゼはありがたいことに説明を続行してくれた。
「彼らは戦争が始まって出番が回って来ようと、心の底から喜んだかどうかは別問題でしょう」
ルイーゼの言葉の意味が僕には分からない。自分の出番が回って来る時は、――自分の役割が嫌なものだった時以外は――大抵の場合は喜ぶものだろう。ましてや今まで自分の本来の役割に就けるし、鬱屈した状況を打開出来るとなれば尚更だ。何故、出番が回って来ることに対して批判的になるんだ? ルイーゼは言う。
「彼らは軍人でありながら軍人の仕事に対して批判的だったの。というより、他の誰よりも自分達の役割を理解していたと言ったほうが良いのかしら――どんな役割でも、それに就いた時にそのメリットとデメリットに気付くけど、彼らの役割の場合は真っ先にデメリットのほうに目が行くわ。戦争が戦争である限り、そこは血が流れるもの」
そう言って、ルイーゼは資料のあるページを開いて指した。
――『私は軍人には向いていないようだ』。
この一文で始まったのは、シャルンホルストが夫人に書き送った手紙だ。僕は視線を次の文へと移す。
――『危険には毅然と立ち向かえるが、足元で罪もない人間が血まみれになって呻いているさまや、兵士たちが喜々として松明を手に焼き払う村々から立ちのぼる炎など、何もかも破壊しつくす恐ろしい光景を見ていると、腹が立って、到底我慢出来ない』。
だが、しばらく後の文には、打って変わってこんなことも書いてあった。
――『このいやらしい仕事に喜びさえ感じることがあります』。
ルイーゼはまた違う資料を出す。――ロシア戦役でコサック兵の残虐行為を目撃したクラウゼヴィッツが書いたものだった。
――『わたしの感覚が麻痺していなかったら、気が狂っていただろう。それでも恐怖のあまり身震いすることなく、わたしが目撃したことを思い起こすことができるようになるまでには、何十年もかかることだろう』。
「これは?」
僕は開いたままになっていたまた別の資料の一文を指して、ルイーゼに訊ねた。ルイーゼはまた別の資料を開いて捲っていたのを中断してこちらを見る。「ああ……」と、声を漏らすのが聞こえた。
「これはグナイゼナウがクラウゼヴィッツ宛に書いた手紙ね。ナポレオン戦役後に国王に退官届けを出すのだけど、これはその理由をクラウゼヴィッツに説明したものよ」
――『……陛下に退官届けを提出することを自ら決心するまで、長い間自分自身と闘ってきた。自分で自分自身を確かめ続け、低下した体力と気力で国家の重要な職務を果たすことは、良いことでも誠実なことでもないとの結論に到達した……』。
「なんでグナイゼナウは退官届けを出そうと思ったの?」
そう訊いたのは、この文を読んでも理由が分からなかったからだ。
「グナイゼナウはナポレオン戦役の最終局面で重要な役割を果たして以来、全体的な人気は高まったわ。でも一方で対外的だけでなく、内側からの批判も多かったの。彼はそういうものと付き合うのに疲れたのね」
――葛藤などは無かったのだろうか。
僕が最初に思ったのはそれだった。
『いやらしい仕事』の片棒を担いでいたシャルンホルストにしろ、残虐行為が行われた戦場を見たクラウゼヴィッツにしろ、同じような場面をくぐり抜けたは良いが批判を受け続けたグナイゼナウにしろ、彼らは何故、その役割を続けられたのだろう。
机の木目に目を落としてそんなことを考えていると、ルイーゼが唐突に言い出した。
「――他の誰よりも自分達の役割を理解していた、といえば、フリードリヒ二世もそうよね」
僕は木目から顔を上げる。ルイーゼはまた別の資料を見ていた――『図説プロイセンの歴史――伝説からの解放』だ。
「なんで」
「フリードリヒ二世は言っているわ、『私は、出生という盲目的な偶然によって定められたこの仕事がどんなに嫌わしいことか!』って。フリードリヒ二世は当初はさっき言ったみたいなバリバリに軍国主義の権化みたいな真似をしていたわけじゃないのよ――『新聞は自由に書いてよい』だとか『わが国では、誰もが自分の流儀で暮らしてよい』とか、それこそ拷問禁止令だって発令しているの。でも、それらはその後の戦争のために犠牲にしてしまったけど」
僕にはそれこそ、なんで犠牲にするようなものをわざわざ作ってしまったのかが理解出来なかった。
その一方で、ルイーゼは資料に視線を落としつつも、目を星のようにきらきらと輝かせている。僕はそれが気になって彼女の目を見た。彼女の目は資料に釘付けになっていて、そんな僕には気付いていないようだ。「きっと――」と、ルイーゼは言う。
「きっと、彼らの理想のためなんだわ」
「戦争のために人道的な法令を犠牲にすることが?」
僕は思わず、ルイーゼの言葉に口を挟んだ。星空に染まったルイーゼの瞳がこちらを向く。
「いやらしい仕事のために腹が立って我慢出来ない程の恐ろしい光景に加担することが? 気が狂いそうになる残虐行為を見ることが? 精神をすり減らすようなものと付き合うことが?」
言って、僕は息を着く。
「――分からないよ、この人達のことなんて」
僕はそう吐き捨てると、再び彼女から目をそらす。ルイーゼが、今しがた読んでいた『図説プロイセンの歴史――伝説からの解放』をぱたんと閉じる音が聞こえた。
「そうね――確かに、この人達の本当のところは分からないわ。ましてや、今言ったことだって、全部私の妄想よ」
「でも」と言って、彼女は本を置く。
「彼らがそういった信念だとか夢を見ていたのは間違いないわ。彼ら、意外と野心家だしね。だから、そういう信念みたいなものが、彼らに自分の保身だとか保守的なところから、もっと革新的なところへ突き動かした――つまり、そこにあった理想を守るよりもさらに大きな夢を優先したのだと思うの」
そう言って、ルイーゼがこちらをちらりと見た。僕は首を縦に振ることしか出来ない。
結局のところ、ルイーゼに訊いたところで疑問の解決どころか謎が深まっただけだ。今朝、イェーガーが『今の彼らはそれらとはだいぶ別人だ』と言っていたのを思い出す。――予想していた通り、調べても無駄だったというわけだ。
(やっぱり、あの人達に直接訊くしか無い、か)
正直なところ、一応はまだ自分の職場であるとはいえ、再びあの〝地下室〟に足を向けるのは少し怖かった。この数日間で〝地下室の偉人〟達の正体を知り、素顔を知ってしまったことと、何よりも自分で起こした不祥事――で、済んでしまっているのがかなり不思議だ――のせいで、かなり近寄りがたいところになっていたのだ。
ボルデナウ卿は顔に笑顔を張り付けているような人だし、ブリュールさんは大学まで送って以来、いつもの子供みたいに無邪気な口調で話さなくなってしまった。もちろんフリッツさんとナイトハルト卿はいつも通りに皮肉屋で、眉間に皺が寄っているんだろう。――結構おっかない布陣だ。
本当のところすごく帰りたいが、これが自分の仕事であるという義務感と、あの人達を放ってはおけないという使命感に背中を押される。
僕は決心と諦めの入り交じった奇妙な気分で、再び〝地下室〟の入り口へと足を踏み入れた。
いつも通りのはずなのに、中の空気はいつも以上にじっとりと湿気を含んで纏わり付く。足元の砂が水溜りの水分を吸ってじゃりじゃり言うのを聞きながら、僕は〝オフィス〟の扉をノックする。僕の気持ちに反して、その音はかなり軽い音で響く。
「失礼します……」
「入ればー?」
そういうブリュールさんの返事もいつもと同じく、間の抜けた少年のような、あるいは人生経験を積んだ老人の声のようだった。僕はそんな、あの不祥事が無かったかのような日常が容易く帰って来た様子に戸惑いを隠せないまま、鍾乳石みたいに冷えたドアノブを捻る。
扉の向こうで、「ああ、また来たんだね?」とでも言いたげに微笑むボルデナウ卿の目がこちらを向くのが見えた。
とは言え、僕の心配をよそに、そして僕の予想通り、〝オフィス〟の中は全く変わっている気配は無かった。
ボルデナウ卿をはじめとする〝地下室の偉人〟達の様子や空気感はもちろんのこと、〝オフィス〟内の装いにも変化が見られない。驚くべきことに、僕がボルデナウ卿の血で以って染めた床も元通りになっているようだ。――僕が居ない間に復旧したのだろうか。けれど、惜しいことに、タイルの目地には何となく未だ血の赤がこびり付いている気がした。
そんなことを考えていると、僕の立っている近くでいつも通りに読書をしているフリッツさんが言った。
「突っ立っていないで、早くコーヒーをくれないか?」
「あ――はい」
我に返って、僕は自分のデスクに荷物を置いてコーヒーを淹れる作業に取り掛かる。コーヒーカップやインスタントコーヒーの粉末などが仕舞われた棚に駆け寄り、フリッツさんのカップを取り出す。と、
「新人!」
「はい?!」
ブリュールさんからも声が掛かる。フリッツさんのカップから手を離さないように気を付けながら、ブリュールさんのほうを振り返ると、ブリュールさんが空になったコーヒーカップを掲げていた。
「わたしにも。おかわり」
掲げた腕の影から、ブリュールさんがこちらをちらりと見たのが見えた。目が合ったと思ったが、僕がそれに気付いた時には彼の視線はノートパソコンのディスプレイに戻っていた。僕はなんとも言えない気持ちになったが、「了解しました」と言ってそれを受け取る。
ブリュールさんからコーヒーカップを受け取る時、僕は何を熱心に見ているのかと思って、視線を彼のノートパソコンのディスプレイに向けた。――『アフガン問題について』。
しかし僕がそのことに目を丸くする暇も無く、ナイトハルト卿もブリュールさんと同じようにカップを掲げる。
「俺のもついでに頼む」
「分かりました」
ブリュールさんのカップを置きに戻って、ナイトハルト卿の元へ向かう。ナイトハルト卿はまたメールを打つのに四苦八苦している様子だった。右往左往する親指を見ながら、また大騒ぎが始まるんだろうな、とか思いつつ、コーヒーカップを受け取る。
と、ボルデナウ卿がコーヒーを口に含んでいるのが目に入った。相変わらず喪服のような厚着で、コートを肩に掛けている。そして静かにコーヒーの味を――きっと豆の苦味や砂糖の甘みや、ミルクのまろやかさまで――じっと瞑目して感じているようだった。一瞬、時間が停止したような感覚から覚めると、ボルデナウ卿がこちらを見た。僕はハッとして、ボルデナウ卿に訊ねる。
「ボルデナウ卿もコーヒー要ります?」
「――うん」
ボルデナウ卿が微笑んで答える。そして差し出された、まだ砂糖が少しこびりついたカップを指して彼が言う。
「砂糖とミルク、三つずつね」
休日明けの仕事を終えて――相変わらず彼らには拒否されたので、僕がやる分の庶務しか無かったけど――フリッツさんもそろそろ皇太子宮殿への帰り支度を始めた頃。仕事時間が終わるギリギリに、僕は言い出した。
「……一昨日、僕、皆さんの〝本物〟について少し調べてみたんです」
「――そう」
僕の言葉への彼らの反応は、ボルデナウ卿が、今日何杯目かのコーヒーをぐるぐると掻き混ぜながらそれを口から漏らした程度だった。他にはブリュールさんが肘を突いてノートパソコンの画面を見つめる視線を、ちらりとこちらへ向けたくらいか。ボルデナウ卿が言う。
「君はてっきり歴史に興味は無いと思っていたけど、違ったのかな」
「歴史バカな後輩に手伝ってもらいました」
「へえ――で、収穫はあった? シュミット」
掻き混ぜる手を止めたボルデナウ卿の口ぶりは少し面白がっているような、感心しているみたいな感じだった。期待通りとか、そういうふうにも見える。僕は答える。
「率直なところ、僕からすれば、あなた達についての疑問点が増えただけでしたね」
そう言って、僕はブリュールさんのほうを見た。――さっきから、ブリュールさんがノートパソコンに集中していない。僕の言うことが気になるのだろうか。姿勢はそのままだし、僕が見たところ目は画面を見ているが、視線だけがうろうろしているようにも見える。
一方のナイトハルト卿と言えば、体をこちらに向けつつも、視線はブリュールさんを見張っている。フリッツさんは支度を終えているようだが、本を読むでもなく、ただ腕組みをして椅子に身を預けていた。
僕は続ける。
「僕が疑問に思っているのは――そう、『何故あなた達が働かないのか』です」
ボルデナウ卿は笑っている。椅子にぎしり、と寄りかかって、視線で以って話の続きを求めて来る。
「その後輩と資料によると、〝本物〟は戦争というものには必ずしも賛成している様子は無いというじゃないですか。『必ずしも』、というのは彼らが軍人とかそういう人達だったからですが――それでも、賛成派では無かった。そんな人達が、この国家の趨勢に口を出せる場所に居るのに、何故働こうとしないのかが疑問なんです」
「ただ単にサボタージュしてる、っていう考え方は無いの?」
そう言ったのは、さっきまでノートパソコンに構っていたブリュールさんだ。ついに集中しきれなくなったらしい。肘を突いたまま、ジト目でこちらを見ている。
「新人にぶっ殺されるかもしれないけど、仕事を拒否しても身分にかまけて悠々自適に税金生活出来るわけだし」
「ブリュール!」
止めに入るナイトハルト卿。けれど、これはブリュールさんの言う通りだ。単なる僕の深読みという可能性もあり得る。でもそれを否定する材料を、僕はさっき見つけてしまった。
「いいえ、『単なるサボタージュ』という可能性は消え失せています――ブリュールさんが『アフガン問題について』のページをネットで見ていたからです」
これにナイトハルト卿が驚愕の目でブリュールさんを見たのを、僕は見逃さなかった。ブリュールさんがぷいっとナイトハルト卿から顔を体ごと逸らす。
「アフガニスタンと言えば、僕も兵役中に赴いていた国です。僕の例を挙げるまでもなく、昨今のドイツではアフガニスタンを始めとする他国での軍事活動についての議論が交わされています。そんな問題に対して、少なからず関心を持っているということは、『単』に『サボタージュして』いるということではないと僕は思います」
ボルデナウ卿のほうを向く。彼の目はもう既に笑っていない。口だけが微妙に上を向いて曲がっていた。
「国内の問題に関心を持ちつつも、それの解決のために働こうとしない。そんなあなた達の行動が、僕には理解出来ません。戦時中のように提言したものを無下に黙殺されるという懸念からでも無いでしょう」
僕はキッパリと言うと、奥に座るボルデナウ卿のデスクへ歩いていく。デスクに手を着いて問い質す。
「何故です?」
ボルデナウ卿は表情を変えない。口だけが不気味に笑っている。
ボルデナウ卿が俯く。不気味な笑いを象る口元だけが見え、それが言葉を紡いだ。
「――『私はこの世のすべてに何も望まない。私にとって価値あるものは、どのみちこの世では与えられないのだ』――」
ボルデナウ卿の口からさらりと発せられたその言葉は、僕にはゾッとするような響きを以って肺の底に落ちた。
まるで、死者が喋っているようだった。大学の図書館で見た資料のどこかのページに載っていた肖像画の人物の唇が動いて、直接僕自身に語りかけて来たと言えば正しいのか。あのプロイセンバカのルイーゼなら泣いて喜ぶだろうが、少なくとも僕にとってはジャパニーズホラーも良いところだ。
ボルデナウ卿は続けて言う。
「――『病状が回復した時の私の役目は決まっている。それは特別なものだ。だが、そんなことはどうでも良いのだ。全軍を指揮できるなら、私にはその方がはるかに大切かもしれない。だが私はそれをできないのだから、すべてがどうでも良いのだ』――」
その口から言葉を一息に全て語ると、彼は再び顔を上げる。仮面の張り付いた、にっこりとした笑顔。
「ゲルハルト・ヨハン・ダーヴィト・フォン・シャルンホルストが、死の間際に娘に宛てて書いて送った手紙の内容だよ」
ユーリって言うんだけどね? と、ボルデナウ卿は付け加えた。
「それが何だって言うんですか」
「『この世に未練なんて無い』ってことさ」
すんなりと言われたそれに、僕は違和感を覚える。眉に妙に力が入るのを感じた。
「どういうことですか」
「君も今言ったように、戦時中、ぼくらは意見を求められながら、それを黙殺された。君は、私達がまたそうされるくらいなら、最初から献策なんかするものかと思っているようだけど――そもそも、そんなふうにして上が私達を飼い殺す気ならこんな〝地下室〟は存在しなくても良いわけだ。少なくとも公的機関ではあるんだからね、非公開だけど」
ボルデナウ卿の仮面のような笑みに、僕は虚を突かれたような気がした。けれど、まだボルデナウ卿は僕の質問に答えていない。ボルデナウ卿は続けて言う。
「私達は存在することを求められてはいるんだよ。でも私達はそれを拒否する。ぼくらは既に幽霊だからだ」
――は?
僕には意味が分からなかった。しかし首を傾げたのはボルデナウ卿のほうだった。
「ちょっと良く分からなかったかな?」
「ちょっとどころじゃないです」
僕の反応に溜息を着いたのはナイトハルト卿だ。
「――お前、幽霊が存在すると思っているのか?」
「あなた達は幽霊じゃないじゃないですか」
「だからなあ……」
ナイトハルト卿の眉間の皺がかなり深くなっていくのが、僕にも分かる。ブリュールさんが横目でその様をじっと観察しているみたいだった。
「お前はそうかも知れないが、上は俺達を幽霊そのものだと思っている。俺達が成り損ねた〝本物〟そのものだと」
ナイトハルト卿の言葉に、僕はハッとする。
僕の表情を見たボルデナウ卿が口角を上げたのを見た。
「ねえ、シュミット。幽霊は存在しないのに、何で存在しないものに意見を求めようとするのかな?」
僕はごくりと唾を飲む。ボルデナウ卿が溜息を着くのが聞こえる。
「過去に答えを求めるのは良いよ。けどね、政治家が相手にするべきなのは現在であって、未来だろう? 自分で考えもせずに幽霊なんて存在しない者に答えを求めるなんて、馬鹿みたいじゃないか! 見ていられないよ……」
ボルデナウ卿の仮面が剥がれて、やるせない表情が露わになる。肘を突き、俯いて、目を逸らす。
「過去に答えを求めるのは歴史学者の仕事だ。どうしてもと言うなら本でも読めば良い。そっちのほうがよっぽど建設的だろう――ブリュールも大喜びだろうし」
僕はブリュールさんのほうを見る。ブリュールさんは日本製コミックのようなわざとらしい表情でそっぽを向いていた。
背後を見ると、フリッツさんは既に居なかった。話が白熱している間に帰ってしまったのだろうか。壁に掛かっている時計は、もう定時を過ぎている。けれど、まだ僕の心のモヤモヤは取れていない。
僕は再びボルデナウ卿に言った。
「けれど――それでも、あなた達はおかしいです」
ボルデナウ卿は黙ったままだ。僕は彼を見据える。
「もう何度目か分かりませんが――あなた達は一体何者なんですか?」
「もちろん――」
ボルデナウ卿は答える。
「〝本物〟の成り損ないの〝ニセ者〟だ」
「それは、ボルデナウ卿の場合はゲルハルト・フォン・シャルンホルストの別物だという捉え方で良いんですよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、やっぱりおかしいです」
僕はボルデナウ卿にキッパリと言い放つ。ボルデナウ卿は怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「何がおかしいと思うの?」
「別物だと言うのなら、何でさっきの話で自分を〝本物〟と同一視しているんですか?」
僕の言葉に、ボルデナウ卿が目を丸くする。自分でもこの矛盾に気が付かなかったというような、今までに無い驚きの表情だ。僕は更に続ける。
「つい最近気付いたんですが――おかしいんです。さっきの話にしても、それこそ根本的におかしい! なんで〝本物〟ならまだしも、〝ニセ者〟が死ぬ必要があると言うんですか? 別人なんでしょう?!」
ボルデナウ卿は何も言わない。他の二人も顔を見合わせている。
もうこれ以上は誰も何も言ってくれないだろう。僕は溜息を着いて、デスクに置いたままの自分の荷物を持つ。鞄を背負って、〝オフィス〟のドアの取っ手に手を掛けた。
「――やっぱり、ここは要りません」
ドアノブを捻って、押し開ける。
「あなた達が自らの手で引っ掻いても皮膚に傷も付けられず、大量虐殺に使用されていたガスでも死ねず、おまけに拳銃で脳髄をぶち抜いてもびくともしない身体を持っていようと、僕は必ず、あなた達を殺してやります」
僕は彼らに背を向けたまま、そう言い捨てて〝オフィス〟を辞した。
地上へ戻る階段は、いつになく軽い足取りで登れた。地上の出口から漏れて差し込む夕陽の光が、足元を明るく照らしている。
僕は階段を登りながら、ケータイを取り出す。――見ると、シーメンスの画面上に、着信を告げる表示が出ていた。『エルンスト・フランツ大尉』。地下はインターネットが使える代わりに、ケータイの電波が届かない。僕は電話を取り損ねたことに申し訳ない気持ちになりつつ、大尉の番号に掛け直す。
大尉は三コールもしないうちに電話を取った。僕は余程、大尉を待たせてしまっていたようだ。僕が「もしもし」を言い終わらないうちに、いつもの様な『よう! 元気しているか?!』という大音声が聞こえた。
「はい、おかげ様でこの通り元気です」
僕はいつもより健康的で明るい声が出せたことに安心する。大尉も『うんうん』と首肯するような声を出す。
『それは良かった! 俺の居た隊の中で、貴様が一番弱っちい感じだったからな』
「そうなんですか?!」
『そうだぞー! 兵役をちゃんと終えることが出来るかどうかも不安だったが、こうしてちゃんと社会復帰出来たんだ。良かった良かった』
再び首肯するような声を漏らす大尉。大尉に喜んで貰えて、僕も晴れやかな嬉しい気持ちになる。僕も「うふふ」と笑ってしまいそうだ。大尉が続ける。
『この分なら、貴様の目的も果たせそうだな?』
それを聞いた途端、喉から出て行くところだった笑いが、肺の底へ引っ込んだ。笑い声の代わりに、それが引っ込んで声帯がこすれるような「えっ」という音が出る。順調に地上へと登っていた足取りも釣られて止まってしまった。フランツ大尉が受話器の向こうで『うん?』と言ったのが聞こえる。
『目的だ、目的。貴様には〝地下室〟へ入った目的があったんじゃないか?』
――目的? 目的って、なんだろう?
僕は再び階段を登りながら考える。
自分が死ぬ、という目的だろうか? それは僕も忘れていた。忘れたというのなら、どうでも良いことなんだろう。
じゃあ、〝地下室の偉人〟達こと〝ニセ者〟達を殺す、という目的だろうか? でも、それは“地下室”へ入った目的じゃない。
フランツ大尉が勘違いしているのか、僕が忘れてしまっているのか。良く分からないが、話がすれ違っているのは確かだ。けれど、僕にそんな目的があっても、きっと達成なんかされていない。
僕は出口の扉を開けつつ言った。
「目的の達成はまだ達成出来ないと思います」
『そうか』
――気のせいだろうか。大尉の声が急に冷え切って聞こえた。
『まあ、そうだろうな、とは思った』
しかも、その声は扉の向こうからも聞こえる。どういうことだろうかと、僕は扉を全開した。
――いや。良く考えろ、アルベルト・シュミット。
急に、僕の脳髄の奥から自分の声が響いてきた。それが心臓の音に増幅されて、不気味に演出される。
――何故、大尉はここのことを知っていたんだろう?
――大概の人々が都市伝説と一蹴するような〝地下室〟の実態を、何故把握している?
それは、大尉が元は〝地下室〟に勤めていたからだろうが。
僕は自分に反論する。でも、自分の声は再び頭蓋骨に反響してきた。
――では、何故〝地下室〟の住人達は僕が着任するまでずっと地下に閉じ籠もっていた? フリッツさんは通って来る手前ではあるが、ずっと外を出歩けていたというのに?
それは担当が居なかったからだろう。
――ボルデナウ卿の頭をぶち抜いた時、彼が言っていた「どうせ今回も死ねないだろうし」というのは?
それも、頭を撃ったことがあるからだ。それが何だと言うんだ――
――じゃあ、誰が頭を撃ったんだ? あそこには拳銃なんて無かったじゃないか。
僕はその自問に答えられなかった。確かに、あそこには僕がイェーガーに渡された拳銃以外には武器らしいものは無かったのだ。じゃあ、誰が拳銃を持ち込んだか、ということになる。イェーガーだろうか? それとも前の担当だろうか?
僕の自問が続く。
――もっとある。何故、大尉は〝地下室〟の住人達が死にたがりだと知っていた? 仕事を紹介された時に『僕にぴったりの仕事だ』と言ったのなら、そういうことだろう?
――イェーガーは何故、エルンスト・フランツ大尉がどういう紹介の仕方をしたのか僕に訊いた? そんな個人情報、訊くほうがおかしいだろうが。
――更には「〝地下室〟内外で、〝地下室〟に害をもたらす者が居たら――問答無用でぶち殺せ」という念押しだ。前に『〝地下室〟内外』で、『〝地下室〟に害をもたらす者が居た』ということじゃないのか?
つまり、それは――
扉の向こうを見ると、そこには何故かフリッツさんが倒れていた。ただ倒れているだけじゃない。服の背中とその周辺の草が、夕陽で誤魔化されてはいたものの、朱色がかって見えたのだ。見事な演出に、それが絵の具ではなく、本物の血であることはハッキリと分かった。
「フリッツさん?!」
僕は弾かれたようにフリッツさんに駆け寄った。即座に側に跪き、フリッツさんの身体を仰向けにする。彼の苦悶の表情と、彼の胸の中心に突き刺さっているバタフライナイフとが目に入った。フリッツさんが咳き込んで口から血を吐く。どうやら意識はあるようだ。
「フリッツさん! 大丈夫ですか?!」
僕はフリッツさんの肩をばんばん叩く。フリッツさんが迷惑そうな表情をして、薄目を開ける。
「――ナイフは抜いてくれるなよ、血と一緒に意識が抜ける」
血を吐きながら、掠れた声で彼が言った。フリッツさんは落ち着いているようだが、僕はそうはいかない。興奮しているのが自分でも分かる。
「誰にやられたんです?!」
「自分でも分かっているんだろう?」
フリッツさんの意外な言葉に僕はハッとして、手元の掛けっぱなしになっていたケータイを凝視する。
『――仲間が倒れても戦い続けろ、というのが軍に入った時に与えられた永続的な命令だったはずだ。アルベルト・シュミット』
その声は、ケータイのスピーカーだけでなく、背後からも聞こえた。僕はゾッとして、後ろを振り返る。
――エルンスト・フランツ大尉は、アフガニスタンに居たんじゃなかったのか?
そこに現れた人物の姿を見て、僕は戦慄する。
彼は、僕が兵役を終えてからもあそこに居たはずだ。けれど、そこには紛うこと無くその彼の姿があった。ただ、あの当時のような制服姿ではなく、そこら辺のベルリン市民が着ているような私服だったけれど。
僕はあまりの衝撃に、そこから動けなかった。彼はゆっくりと近付いてくる。彼の靴が芝生を踏みしめるざくざくという音が余計に大きく、僕の鼓動と連動して不気味に聞こえた。
不意に、彼がジーンズのポケットから何か銃みたいなものを取り出すのを僕は見た――テーザーガンだ! 僕はその時やっと動いた。立ち上がり、こちらも上着から銃を取り出――あれ?
(そういえば、持っていない――)
空虚を掴んだ手の感覚に戸惑う暇など無かった。彼はあっという間に僕をテーザーガンの射程に入れると、それを発射する。テーザーガンは単発だから外してくれれば良いのに、それは僕にすんなり当たってしまった。電撃のような衝撃が身体中を疾走し、脳髄に突き刺さる。僕は糸が切れたマリオネットのように、すとんと地面に崩れ落ちた。
目の前が天に向かって飛んで行く瞬間、僕は彼が――エルンスト・フランツ大尉が、憎悪を顔に浮かべて僕を見下ろしているのを見ていた。それが、僕が意識を手放す前に見た最後の風景だ。