「見ーつけた」
扉の開く音と共に現れたのは、明らかにこの国の者ではない服装と顔立ちをした、金髪碧眼の男だった。
「神聖ローマ」
その男は俺を見下ろして、子供達が遊び相手を見つけた時のように俺の名を呼んだ。ただし、その声色は子供達の遊びのそれではなく、大人達の残酷な敵意と殺意が表れていた。
(やばい)
俺がその男を見て思ったのは――男には何度か会ったことがあるのだが――今までの、同じ宗教を信仰する者という認識ではなく、自国への侵略者、否、もっと恐ろしいもの――死神、と言うべきかもしれない――という直感だった。
(やばい)
こんな時にこの男と出くわすとは。こんな時に。まだ死ぬ訳には――まだ消える訳にはいかないのに。
死神は何の感慨も無さそうに語る。
「前の三十年戦争。あの時オーストリアは、“神聖ローマは死んだ”って言ってたんだけど――」
信じられないことを言いながら、男は俺にじりじりと歩み寄って来る。俺は男の言葉に呆気に取られて動けない。
「確かにあの後からお前の姿は見ないし、その代わりにオーストリアが“神聖ローマ”代表として振る舞っていたり、プロイセンとまさかの“神聖ローマ”国内で内紛を始めたりするから、俺も本当に死んじゃったのかなと思ってたよ? でも――」
男は腰に下げた剣の柄に手を添えて、
「やっぱり生きてたね」
何のためらいも無く抜剣した。俺はそれで初めて後ずさった。驚きの余り、喉の奥から息が引っ込んでいく音が聞こえた。
しかしそれより早く、男は俺の肩を力任せに蹴飛ばした。当然、反応なんて出来ず、レンガの床に背中を強かに叩きつけて転がる。男は更に俺の腹を蹴ると、仰向けに回転した俺の体を間髪入れずに踏みつけてきた。俺は男の連続攻撃による痛みと呼吸の乱れに、腹を押さえてむせた。そこに、男が馬乗りになって伸しかかってくる。俺は足掻いて抵抗するが、男はそんなことは何でも無いように、俺の両腕を踏んで押さえつけた。俺は動けなくなる。
「邪魔なんだよね、お前」
男が俺の顎を押さえて言う。首が締りそうになる。
「だってさ、実質、お前はいないようなものなのに――いる必要なんか無いのにいるなんて、舞台を降りたくせに未だそこに執着してるみたいでさ。お兄さん、すっごく見苦しいと思うよ?」
字面だけならただ嘲っているだけだが、この男は冷酷に――その手に持った剣の刃のように鋭く残酷に言い放った。ちっとも笑わず、ただ無表情だった。男は剣を、俺の喉に向かって逆手に構える。
「それに、オーストリアやプロイセンや他の奴らも、舞台から降りてもらわないとだし。まだあいつらは、お前を舞台に上げる気はあるみたいだからね。そうなる前に邪魔者を消しておかないと。そろそろ俺だって舞台の真ん中で主役を演じたいんだよね! わかりる、神聖ローマ?!」
男は妙に饒舌になっていた。男が喋っていて、顎を押さえる手が緩んでいる間に抜けようとしたが、動いた途端に、「という訳で」と再び押さえられる。
「邪魔者のお前は、お兄さんが今度こそ消すから。次からは観客として楽しんでね?」
剣の刃がちかりと光った。一瞬、俺の死神の残忍な笑顔が見えた。
(嫌だ)
俺はただ、俺の死を――消滅を拒絶する言葉だけを考えた。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、死にたくない。まだあの子の元へ帰っていない、まだあの子に再び逢えていない、まだあの子との約束を果たせていない、否。まだあの子に、 に――!
(嫌だ、こんなところで死ぬなんて、消えるなんて嫌だ……!)
勿論、俺の死神にはそんな思いなど知る由も無い。死神は断頭台に立つ死刑執行人さながらに――この時初めて嗤ったのを見た――、
「じゃあ神聖ローマ、永遠に。アデュー」
ご機嫌そうにそう言って、ギロチンの鎌のように剣を振り下ろした――
( ……!)
そして“俺”は、
あの子に逢えなくなった。
あの子との約束を果たせなくなった。
あの子の元へ帰れなくなった。
これは“警告”だ、ルートヴィヒ。
今までのまま進むなら、今のうちに引き返さないなら、
失敗を繰り返すのなら、
“お前”はまた、大切なものを失うぞ。
*
自分の喉元に刃が振り下ろされた気がして飛び起きた。自分の嗚咽の声に混じって、鳥が心地良く鳴いているのが聞こえる。
俺――ルートヴィヒは、乱れた呼吸のまま、喉元に手をやった。首がつながっているのを確認して――かすり傷の一つも出来ていなかった――安心して、溜め息をつく。
窓の外を見て、そろそろ起床時間だということを思い出す。だというのに、俺の頭の中では未だに“俺”――神聖ローマだった――の声が反芻していた。
(これは“警告”だ、ルートヴィヒ)
(“お前”はまた、大切なものを失うぞ)
「“大切なもの”、か……」
一瞬、ある男の顔が頭をよぎった。俺はその嫌なイメージを振り払うように首を振ると、再びそのイメージが戻って来ないうちにさっさと着替えを済ませて階下へ降りてしまおうとした。
すると、玄関からこの屋敷の主人――ローデリヒだ――の声と、客人と思われる男の声がした。何やら言い争いをしている様子である。が、俺にとっては客人のほうが問題だった。わざわざ顔を確認しに行かなくても分かる客人は、俺の兄――ギルベルトなのだから。
*
「よう坊っちゃん、ご機嫌麗しゅう!」
朝から他人の都合というものを考えずにやって来たこの男――ギルベルト・バイルシュミットは、私――ローデリヒ・エーデルシュタインと顔を合わせるなり、嫌に上機嫌な様子でそう言った。
「何なのですか、ギルベルト。こんな早朝から訪ねて来ないでくださいませんか、近所迷惑ですよ」
調子の良いギルベルトとは逆に、私は朝早くから自分のペースを崩された気がして不機嫌だった。眉間にしわを寄せながら私は言う。
「用が何も無いのならお帰りいただけませんか?」
「待て、おいローデリヒ!」
扉を無理矢理閉めようとして、それに焦ったギルベルトが声を上げる。
「用ならある! ルートヴィヒ、ルートヴィヒを迎えに来た!」
その言葉に、私は扉を閉める手を止めた。そういえば、前にギルベルトが今日ルートヴィヒを迎えに来ると言ってましたっけ。しかし、
「すみませんがギルベルト、まだルートヴィヒは帰りたくないと言ってますので、また後日、出直していただけませんか」
私はギルベルトに言った。死角から気配がする。ギルベルトは私の言うことに納得できない様子で、
「何でだよ」
とむくれる。
「未だ彼は、心の整理がついていないのでしょう。ここ数年の出来事で色々とショックを受けていてもおかしくないですし、それに――」
私は静かに、彼にそう言った。――多分、死角にいる彼にも聞こえているだろう。
「我々に対しても思うところがあるでしょう」
ギルベルトは私の言葉に苦い顔をして、
「ルッツがそう言ったんだな?」
確認するように言った。
「ええ、確かですよ」
「別に今更北ドイツ連邦と同盟とか考えてねえよな?」
「……貴方は、私が今更そういうことをすると思うのですか?」
私はギルベルトの言葉に苛立つ。ギルベルトはそれに気付いたのか、
「あ、いえ、無いです……」
そう言った。
「しかし困ったな。ルッツが帰らないとなると、やっぱり強硬手段を使うしか――」
ギルベルトが呟く。“強硬手段”?
「貴方ならルートヴィヒが帰ろうと帰るまいと、その“強硬手段”とやらは使うのでしょうが……、どことするのです?」
彼にとって――というより、昨今のヨーロッパにとって――“強硬手段”とは軍事行動の代名詞だ。外交で何ともならない分、最終手段で軍事行動に出るのが一番手っ取り早い。力に物を言わせるのが当然の時代だ――これからもそうであるように。
ギルベルトもわたしの言うことを否定せず、後ろ頭をぽりぽりと掻きながら答えた。
「まあ、お前には話しても良いけど、っていうか知ってるか。――フランス」
「やはりそうですか」
ギルベルトの言う通り、私も彼――プロイセン――が、今後軍事行動に出るならフランスだろうとは思っていた。それは前のプロイセンと私――オーストリアの戦争の講和の席をはじめ、様々なところでの彼らの行動に表れている。
「確かに、最近の彼の行動は目に余りますし、今後のドイツのことを考えれば、一回黙って戴いたほうが良いとは思います――けど、それとこれがどうつながるのです?」
「ああ、ローデリヒは知らないんだっけか」
私の質問に、彼は一瞬だけキョトンとしながらも答えてくれた。
「北ドイツ連邦諸国と同盟国との決まりでな、“先に宣戦布告された場合のみ、協力してくれる”ってことになってるんだぜ!」
「なるほど」
前の戦争で“プロイセンを中心に、オーストリア以外のドイツ諸国でまとまる”ということが決まったといえ、まだまだ烏合の衆だ。それをプロイセンは、戦争を機に一致団結させるつもりらしい。
「でもギルベルト、“先に宣戦布告され”ないと、なのでしょう? どうするのですか」
私のその質問に、ギルベルトは目をそらした。長い間の後、彼は珍しく自信無さげに、ぼそりと呟いた。
「それは、目下考え中だ……」
その時、我が家の電話が鳴った。私が振り向くと、ちょうど私の後ろをエリザベータが駆けていった。どうやら彼女が取ったらしく、電話はすぐに鳴り止んだ。電話の内容も短いものだったらしい。彼女はすぐにこちらへ戻って来た。
「何のお電話でした?」
私はエリザベータに訊いた。
「プロイセン王国参謀本部から、ギルベルトがこっちに来てるはずだからと、伝言を……」
「俺宛て?」
エリザベータの言葉に、ギルベルトが身を乗り出す。
「何かあったのか?」
ギルベルトが訊ねると、エリザベータは少し不快そうな表情をして答えた。
「フランスから大使が来るらしいから、急いで帰って来てくれって」
「そうか」
ギルベルトは暫く考えるような素振りをした後、
「分かった。ありがとな」
と言った。その言葉に、エリザベータは意外なことが起こった時のような表情になる。
「帰るのですか?」
私はギルベルトに訊ねた。
「ああ、本部から呼び出されたんじゃしょうがねえ。また今度出直して来るから、それまでルートヴィヒのことは頼んだ」
「了解しました」
ギルベルトは足元に置きっ放しの荷物を持って、屋敷の門のところに待たせていた馬車のほうへきびすを返そうとし、不意に何かを思い出したように
「ああそうだ」
とこちらを振り返った。
「もし、これからフランスと戦争になった時は手を出してくれるなよ」
「それこそ愚問ですね」
私はギルベルトの言葉に返答する。
「私は、もうこの問題に口も手も出す気はありませんし、それに」
私はここで、無意識のうちに語気を荒くして、
「貴方は私がフランスに与するとお思いなのですか、ギルベルト?」
と言い放っていた。ギルベルトは少し威圧されたようになっていたが、納得したように、
「そうだな」
口を三日月のように歪めて笑って、
「お前がフランス側に回る訳が無えよな」
と言った。
「それじゃあな」
ギルベルトは今度こそ馬車の方へ歩き出す。
「エリザベータと仲良くしてろよ?」
「な」
赤くなって過剰反応ともとれる行動をしたのはエリザベータだった。
「何言ってんの? 喧嘩する訳無いじゃない、さっさと帰れバーカバーカスットコバーカ!!」
何も親指を下に向けてまで言うことでは無いと思いますよ、エリザベータ。ギルベルトはそんな彼女の反応を面白がっているようにケセセと笑って馬車に乗り込むと、
「戦争が終わって無事統一出来たら、俺達とも仲良くしてくれよ、ローデリヒ」
私はニコルスブルグでのギルベルトの言葉を思い出す。
「勿論です」
私がそう返す間に、彼の乗った馬車は行ってしまった。
*
「さて」
私は一息つくと、死角の方を向く。
「長く待たせてしまって申し訳ありません、ルートヴィヒ」
話しかけると、死角に隠れていた彼が出て来た。苛々しているような、不快そうな顔をしている。
「貴方の兄は帰しましたけれど……良かったのですか?」
「ああ」
私が訊ねると、ルートヴィヒが不機嫌そうに答えた。
「まだローデリヒの言う通り、未だ俺は落ち着いて兄貴と話せそうに無い」
ルートヴィヒがうつむく。やはり、ニコルスブルグでの一件もそうだが、今までのことで思い惑うところがあるのだろう。
「ルートヴィヒ」
「ローデリヒ、すまないが――」
私の言葉を遮ってルートヴィヒが言葉を発する。彼は苛立ちを隠せぬ表情のまま、顔を上げて、
「聞いてくれるか、話を」
そう言った。
*
その年の八月、俺ことフランシス・ボヌフォワは、普墺戦争の仲介役として講和会議に参加するべく、上司と共にプラハにいた。
結局、俺の“プロイセンとの約束なんか破って、良い頃合いを見計らって戦争を目茶苦茶にしちゃえ”作戦は、当事者達が戦争そのものを速攻で終えてしまったために、失敗した。そこで俺は、仲介者として関わることで、今後に影響を残すことにしたのだ。
(まあ、プロイセンとの約束は守ったことにはなってるんだから、別に収穫が無いって訳じゃないんだけどな)
俺は戦いの起きる一年前に、プロイセンとある約束をしていた。そのことで、俺は会議の後、プロイセンに会いに行ったんだ。
プロイセンは、何やら廊下で自分の家の首相と話をしていた。少し無理矢理に割って入る。
「やあぷーちゃん、それとビスマルク首相。公使をしておられた時以来ですね、お久しぶりです」
プロイセンが物凄い剣幕で睨みつけてくる。この前より反応が酷くないか? 一方、首相のほうは、表情ひとつ変えずに、
「おお、お久しぶりですフランス殿。相変わらず顎髭が素敵ですな、剃ればもっと素敵ですが」
と、相変わらずの酷い物言いの挨拶を――フランス語自体はすごく綺麗なのに――返してきた。お兄さんはビスマルクに友人がいるのか、自国民でもないのに心配です。
「それで、何の用なんだフランス。用も無いのに他国の話に口突っ込みました、なんて訳無いよな?」
苛立った口調でプロイセンが話しかけてくる。
「それとも私は席を外したほうが良いですかな?」
プロイセンの口調に対して、この首相は落ち着いていた。俺もいつも通り冷静に話す。
「いや、首相も居てくれて構いませんよ。用というのは今回の報酬のことでして」
「“報酬”……?」
「やだなあ!」
顔をしかめるプロイセンに俺は言う。
「今回の戦争を黙って傍観していたら、ライン川の左岸をくれるって約束だったじゃないの!」
プロイセンは顎に手を当てて考える素振りを見せると、ビスマルク首相と一瞬視線を交わし、
「さあ? 何のことだか……」
と答えた。
「はあ?!」
そのふざけてるとしか思えない回答に、俺は耳を疑った。重ねてプロイセンが言う。
「俺はそんなこと一言も言ってねえ。そうだろ、ビスマルク?」
「はい」
プロイセンの言葉にビスマルクが同意する。
「私もフランス皇帝ナポレオン三世陛下と会談させて戴きましたが、そのようなことは申し上げた覚えは一切ございません」
「んな馬鹿な、俺はちゃんと――」
ちゃんと約束したかどうか不安になってきて、俺はその時の記憶をたぐり寄せた。俺は、ちゃんと――
加勢して欲しいんだったらライン川の左岸をくれないと駄目だよ?
誰も“加勢してくれ”なんて言ってねえよ!
プロイセンがオーストリアと戦っている間、俺は傍観してるってわけね。なにそれ妬ける! でもそれだけでライン川の左岸もらえるのならそれでも良いかも!
一人で興奮してんじゃねえ、気持ち悪い。
「あ……」
「だろ?」
プロイセンが嗤う。
「俺は一言もライン川の左岸なんて言ってねえ。全部お前の思い込みで、勝手な妄想だろ? それに――」
俺は、奴の口が三日月のように歪むのを見た。
「お前だって分かってただろ? “こんな口約束、守るわけない”って。なあ、フランス?」
「まさかお前、ってかお前ら……!」
俺が、フランスが、何らかの形で介入してくる前に――軍事介入してくる前に、そうなることを先読みして、戦争を早期に終わらせたのか?!
プロイセンの赤い眼が苛々するくらい鋭く光る。
ああもう、こいつ早く何とかしないと。
*
俺――ギルベルト・バイルシュミットは、“フランスから大使が来る”という報告を訝しみながらも、オーストリアから一路、本国プロイセンの首都であるベルリンへ戻った。
早速、ビスマルクの元へ向かう。
「今戻ったぞ! 一体どういう――」
ことだ、とノックするのも忘れて執務室へ入る。肝心のビスマルクは、中央の机で黙々と書類を読んでいた。
「おい、オットー・エードゥアルト・レーオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン」
俺が声を掛けてやっと気が付いたビスマルクがこちらを見る。
「おお国家殿、ちょうど良いところへ」
「“おお国家殿”、じゃねえよ。フランスから大使が来たんだろ? ヴィルヘルムは静養中だし、お前が会ったんじゃないのか?」
「いえ? 私は大使の方には会っておりませんが……」
ビスマルクが読んでいた書類を手に、こちらへやって来た。俺は荷物を足元に置くと、その書類を受け取った。――ヴィルヘルムからの電報だ。
「フランス大使のベネデッティ伯爵は、陛下のいらっしゃるバート・エムスに直接訪ねられたようです。陛下は会見を拒否なされたようですが」
「で、その大使は何の用で来たんだ? 今フランスとの間で大使を寄越してくるようなことなんか無いだろ」
「いや、それが」
ビスマルクが虫眼鏡のレンズを拭きながら話す。
「この前のスペインの王位継承問題のことらしく」
二年前、スペインで当時の政権に対しての武装蜂起及び革命が起こった。女王イザベル二世はフランスへ亡命し、結局は新憲法で立憲君主制となり、親王に亡命したイザベル二世の息子であるアルフォンソ十二世が就く――と思われた。しかし、革命のリーダーはこれを認めなかった。そこで、我がプロイセン王家の親戚にあたる、ホーエンツォレルン・シグマリンゲン家のレーオポルトを候補に挙げようとしたのだが、ホーエンツォレルン家の者を王とする国に挟まれることを激しく嫌がったフランスが口出ししてきたのだ。
「でもアレは本人もヴィルヘルムも気乗りしないから、こっちが折れたじゃねえか」
俺は反駁する。ビスマルクも半ば面倒そうに、
「フランス側は譲歩だけじゃ気が済まなかったということでしょうな、陛下も電報の様子を見る限り、かなりご立腹のようですし」
さて、どうしたものか、とビスマルクがうなり声を上げた。
その時、執務室のドアを叩く音がした。俺はビスマルクに書類を押しつける代わりに、足元に置きっ放しだった荷物を持って、扉の前から退く。「失礼します」の声と共に扉が開き、精悍な風貌の男が現れる。――参謀総長のヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケだ。
「やはりこちらにいらっしゃいましたか、国家殿」
モルトケがいつも通りの仏頂面で言う。
「ああ、探したか?」
「いえ、ヨハンめに“白ウサギのような男はどこか”と訊いたところ、すぐに」
自分の甥にまで“白ウサギのような男”を広めたな、ヘルムート。俺は微妙にうんざりした気分になる。当然、モルトケはそんなことは気にせずに、
「ではお帰りのところ早速で申し訳ないのですが、作戦計画の見直し案を国家殿にも是非見ていただきたく――」
と言ってくる。俺は答える。
「良いけど、作戦計画見直すの何回目だよ? 悪いことじゃねえけど……」
「かれこれ十回以上はしております」
モルトケはそう平然として言うが、その言葉には若干の皮肉が込められているような気がした。それが分かったのか、ビスマルクが口を利いた。
「戦争を始めるにしても、その前の外交で失敗する訳にはいかんのだ。ローンが陸軍の準備は万全と言い、モルトケが一分の穴も無い作戦を立てようと、それは同じだ」
座りながら、電報に目を移す。そのビスマルクの様子を見て、モルトケがぼそりと漏らす。
「お前なら偽の情報の一つや二つくらい捏造しそうだがな、ビスマルクよ」
それに「失礼した」と付け加えて、モルトケは退室した。俺はそれを目で追いながら、
「それが出来たら、こんなに苦労しねえよなあ……」
と呟く。この時、俺はビスマルクが「捏造……」と独り言を言うのを聞いた気がした。