目を覚ますと、朝になっていた。眼鏡を外しているらしく、幸太郎の視界はぼやけている。しかしそんな状態の視界でも、何者かに顔を覗き込まれていることは一目瞭然だった。幸太郎は起き上がり、枕元を漁る。幸いにして、愛用の太い縁の眼鏡はすぐに見つかった。それを掛けると、横になっている自分の足元で子供が二人、こちらをじっと見ているのが分かった。
甲高い声で子供たちが笑う。
「Er ist wach!」
「Er ist am Leben!」
子供たちの笑い声に幸太郎が驚いていると、彼が寝ていた部屋のドアが開いた。この屋敷の使用人らしき婦人が来たのであった。それを見て、子供たちは笑い合いながら部屋を出て行く。
幸太郎はその姿に見覚えがあった。昨夜この屋敷に駆け込んだ時に、介抱してくれた人々のひとりだった。
幸太郎は溜息をつく。この屋敷に駆け込めたのは不幸中の幸いであり、しかしこの屋敷に駆け込んだのは、生きた屍に追われたためであり、奇妙な集団から逃げ遂せたからであり、悪魔によってここへ連れて来られたからであった。つまり、今この屋敷に幸太郎がいるのは、夢ではなく、現実のことなのだ。
「Buon giorno.」
婦人のゆっくりとした朝の挨拶を聞いて、幸太郎は冷静に返答した。
「ボンジョールノ」
「Ben fatto.」
昨夜、この屋敷の奥に招き入れられた幸太郎は、タイル張りの部屋に案内されるや否や、湯を張ったバスタブに入れられたのだった。今目の前で、抱えてきた服の束を整理している婦人によって、口喧しくあれこれ捲し立てられたかと思えば、スウェットなどを全部脱がされて、身振り手振りで身体をよく洗うように指示されたのである。彼女の示すことを全て完遂し、一息入れながらバスタブに浸かっていると、時折玄関のほうから言い争う声がした。この屋敷の主人と、屋敷を訪ねて来た屍ではない何者かが、語気を荒げて言い合っているのだ。
幸太郎はそれを聞くたびに不安になった。しかし今ここで平穏無事に過ごしているということは、主人が全てあしらってくれたことが察せられた。
湯浴みを終えて身体を拭いていると、婦人に寝所へ通された。幸太郎は「今夜はもう遅いから、また明日」だと言われているのだと考えた。寝間着はとりあえず、着て来たスウェットを再び使った。
見てみると、スリッパは片方が脱げたまま失くしており、ズボンの裾は勿論、靴下は石畳の上を走ったことでボロボロになっていた。
幸太郎はこれが夢でありますようにと念じながら、目を瞑ったのである。
しかし、これは夢ではなかった。そして幸太郎は再び対峙した婦人によって、新しい衣装を着せられようとしていた。
「È previsto un abbigliamento alternativo. Si prega di cambiarsi d'abito.」
幸太郎は少し驚いた。まさか新しい服まで用意して貰えるとは、思いも寄らなかった。しかし振り返ってみれば、悪魔に連れて来られてから、スウェットを着ている人間など自分の他には居ないのだった。しかもこのスウェットだけでは、寒くてとても耐えられないと思った。幸太郎は善意に甘えることにし、ありがたく着替えさせて貰うことにした。
最初に渡されたのは、襟の無い、裾の長いシャツであった。服の形状に違和感を覚えながらも、婦人に促されてせっせとボタンを嵌めていると、彼女によって襟のようなものが取り出された。どうやら別途取り付けるもののようだ。次にスカーフのような布が登場した。幸太郎がそれを首に巻き倦ねていると、見兼ねた婦人が結んでくれた。幸太郎はネクタイが自分で結べなくて、数少ない友人に手伝って貰ったことを思い出し、このスカーフもどきの結び方も覚えたほうが良い気がした。続いてチョッキと、シルエットがスッキリとしたズボンが登場し、丈の長いコートを着、最後は足首丈のブーツを履かされた。
先程までの自分の格好とは掛け離れた、しっかりとした装備に幸太郎は戸惑った。こんなにちゃんとした格好をするような家に、居させて貰って良いのだろうか……?
しかし、幸太郎に貸し出された衣装はコートなどを着込むのに対し、婦人の着ているものは大層薄着であるように思われた。シルエットは胸元で緩く締まっているだけで余裕があるものだったが、着込んでいる感じは無く、おまけに袖がとても短かった。
着替えを終えたところで、婦人が幸太郎に言った。
「La colazione è disponibile. Il padrone vi aspetta.」
幸太郎の準備が出来たと見て、違う場所に案内してくれるようだった。幸太郎が婦人についていくと、そこは食堂のようであった。見れば昨夜廊下ですれ違った男性が、屈んで暖炉で手を温めている。そしてその夫人は、既に席に就いて幸太郎の到着を待っていた。
「Maestro, abbiamo una visita per lei.」
「Capito.」
婦人の言葉に、立ち上がりながら男性が答える。続いて幸太郎のほうを向いた婦人が、男性を指して言う。
「Ospiti, questo è il nostro padrone, Wilhelm Freiherr von Humboldt.」
婦人の言葉の後半は、堅固な雰囲気を醸し出していた。この堅固な部分が、この屋敷の主人の名前なのだろうか?
そのことを考える前に、幸太郎は主人の前に身を投げ出していた。これをやったのは何年ぶりだろうか、滅多にやることの無いポーズを、この生命の恩人たちの前で披露する。遠慮無く両手を突き、額を床に擦り付ける。土下座であった。
「助けてくださり、ありがとうございました!」
この土下座を前に、部屋中が一瞬静まり返った。言うことからして、感謝されているのは分かっただろうが、急に床に這い蹲ってどうしたのかと戸惑ったに違いない。主人が焦った様子で返答した。
「頭を上げてください。貴方を助けられて良かった」
これまた流暢な英語であった。幸太郎が言われた通りに顔を上げると、主人が手を差し伸べる。
「さあ、朝食にしましょう」
主人が婦人を促す。キョトンとしていた婦人が慌てて幸太郎を席へ案内した。幸太郎は主人の向かい、夫人の隣の席に就いた。
さて、幸太郎は目の前に置かれた丸い皿とフォークとナイフ、スプーンを見て呆然とした。ここは日本ではない。これから出てくるのは、茶碗に装われた白飯と味噌汁ではないのだ。ヨーロッパのテーブルマナーがうろ覚えであったことを、幸太郎は今思い出した。ナイフが右手でフォークが左手、ということで良かっただろうか……?
幸太郎は周囲をチラチラと見回した。下手なやり方を見せて、恩人たちの気分を害することは避けたかった。とりあえず主人たちの様子を伺い、そのやり方に倣うことにする。そんな中、隣の席に座る夫人が、その膝の上にナプキンを広げ出した。幸太郎も慌てて皿の上に折り畳まれてあったナプキンを取る。緊張しながら、自分の膝の上にナプキンを広げて掛ける。
そうしている間にも、婦人が各人の皿にパンやサラダを取り分け、コーヒーを注いで回った。それが終わったのを見て、主人が合図する。
「さあ、いただこうか」
主人や夫人がフォークやナイフを動かし始めたのを見て、幸太郎も食事を始めた。平たく切られたパンの断面にバターを塗り、一口含んだ。少し硬いと思われたが、なんとか咀嚼して飲み込む。続いてコーヒーを啜ってみて、なんだか味に違和感を覚えたが、それでも緊張感が解けて一息着けた感じがした。
それを見て、主人が幸太郎に問いかけた。
「ところで、貴方は何者なのか?」
その質問に、幸太郎はパンを喉に詰まらせかけた。前半部分はともかく、フー・アー・ユーがはっきり聞こえたからだ。彼が噎せているのを見て、隣に腰掛ける夫人が幸太郎の背を擦ってくれた。
「大丈夫?」
更にそれを見て主人が立ち上がった。
「失礼、私自身の名前も名乗っていなかった。落ち着いて欲しい」
幸太郎はやっとの思いでパンを飲み込んだ。無事にパンが喉を通過したので、幸太郎はOKサインを示した。主人が座り直して続ける。
「私はヴィルヘルム・フォン・フンボルト。プロイセン王国から派遣されて来た、ローマ公使だ」
自己紹介すると、続いて正面に座る夫人を指した。
「そちらは妻のカロリーネだ」
カロリーネは隣に座る幸太郎を見て、ドイツ語で言った。
「カロリーネ、カール・フリードリヒ・フォン・ダッヘレーデンの娘よ」
それを見て、フンボルトは今度こそ幸太郎に訊ねた。
「貴方の名前を聴かせて欲しい」
幸太郎は落ち着こうとして唾を飲み込んだ。
「僕の名前は神喰幸太郎です。どうぞ宜しくお願いします」
「見たところアジア人のようだが、見慣れない形の服を着ていたな。貴方はどこからどうやって来た?」
フンボルトの質問攻めに、幸太郎は言葉に詰まった。ついにこの質問を投げかけられる時が来たのだ。一体どう答えたら信じて貰えるか、幸太郎は唸りながら悩んだ。
困った様子の幸太郎を見て、フンボルトも助け舟を出した。
「勿論、無理に答えなくても大丈夫だが……」
けれども幸太郎は答えるつもりだった。苦し紛れに幸太郎はフンボルトに訊ねる。
「すみませんが、今日は何年でしょうか?」
フンボルトは首を傾げる。この客人は今日の日付も知らないのかと思ったのだろう。カロリーネと顔を見合わせながら答えた。
「今日は一八〇七年十一月二〇日だ」
幸太郎は頭を抱えて俯いた。何しろ日付の言い方が慣れないものだったので、理解するのに時間がかかったのだ。しかしようやく理解出来たところで、彼は予想以上に過去の時代に連れて来られたことに驚いた。幸太郎はやっと口を開く。
「僕は未来の時代の日本から、悪魔に連れられてやって来ました」
客人の口から成された告白に、フンボルト夫妻は息を飲んだ。彼の口から「悪魔」が出て来たことが、いちばんの驚きだった。互いの顔を再び見合わせる。
幸太郎の言葉に勿論信憑性は無かったが、けれども彼が悲しげで神妙な様子であり、しかも突然異なる国の首都のど真ん中に見慣れない格好で現れた以上、「悪魔」とやらの御業に関わっているのは信じる他無かった。
幸太郎が続けて言う。
「自分で望んで来たのではありません。悪魔に攫われて来たのです。僕はキリスト教徒ではありませんが、リスペクトの心は持っています」
彼も事情を頭で考え、整理しながら言葉にしていた。必死に、半ば混乱しながら懇願する。
「とにかく右も左も分からない状態なので、出来るならこのまま居候させてください! 働きます、何でもしますから……」
幸太郎は先程から、纏まった、整然とした言葉で事情を話せなくなっている気がして来た。慣れない外国語会話だったので当然ではあった。しかし、それによって更に怪しまれているのではという疑念が生じていた。
幸太郎はとうとう席を立ち、夫妻の目に入るだろう場所まで移動した。どうしても助けて貰うため、最上級の誠意を示そうと、再び土下座をする。
「僕を助けてください。お願いします……」
フンボルトは溜息を着いた。低い声で幸太郎に訊ねる。
「そのポーズは日本人が必死さを示す時に使うものなのか?」
「え〜っと……」
幸太郎は前の言葉を聞きそびれた。どうやら主人は困っている様子だというのは感じたので、何か返答しようと考えたが、どう返したものかこちらも困ってしまった。
その間に、フンボルトはカロリーネ夫人に向かって話しかける。
「どうすれば良いと思う、リーナ? 僕は君の意見に従おうと思うよ」
フンボルトは首を傾げながら続けた。
「けれども客人であるとは言え、悪魔の手の者を迎え入れるのはどうかと思う」
幸太郎を受け入れることに疑問を呈するフンボルトに、カロリーネ夫人は答えた。
「私は大丈夫だと思うわ、ヴィル。このローマで悪魔が勝手を働けるとは思えません。」
幸太郎のほうを見遣りながら、彼女は続ける。
「それに、この家にも活気が戻りますわ」
フンボルトは目線で夫人と客人とを見比べた。彼はカロリーネ夫人の真っ直ぐな気持ちを含んだ瞳を見て、首肯する。
フンボルトは変わらず床に這い蹲り続けている幸太郎に近付き、手を差し伸べた。
「さあ、立ち上がってくれたまえ。フンボルト家は君を歓迎する。ようこそ我が家へ!」
幸太郎はやっと立ち上がり、フンボルトの手を握った。無事に受け入れて貰えたことが嬉しく、何度も何度も握った手を振った。
「ありがとう……ありがとうございます!」
*
実際、悪魔と出会うことはもう無かった。ここはイタリアのローマで、教皇庁の御膝元であり、悪魔が好き勝手する隙は無かったのである。
*
幸太郎が居候しているフンボルト家の屋敷は、パラツィオ=トマティと言った。幸太郎の時代では既に映画で有名になっていたスペイン広場が、窓から眺めることが出来た。そこには時折市場が出て、人々が行き交うのが見える。
幸太郎は商人と思しき者たちが呼び売りし、香具師や大道芸人が興行しているのを、眺めたりスケッチした。街中で人々が騒いでいるのを見るのは、だいぶ久しぶりだった。
そんな街の人々の中を、厳しい様子で歩いていく者たちがいるのにも気付いた。ある時、幸太郎はフンボルトにその者たちについて訊ねたことがある。するとフンボルトは眉間に皺を寄せながら、こう答えた。
「あれはフランス軍だ」
聴くところによると、フンボルトがローマに派遣されるより前、十年近く前にフランス軍がローマを占領してしまったらしい。それ以来、教皇はパリに囚われの身となっていた。パリでは革命が起き、今ではナポレオンの天下だった。
そして、そんなローマに派遣されたフンボルトはローマ公使で外交官の身らしく、毎日多忙そうにしていた。訪ねてくる客の相手をする他は、執務室で書類を作成している。それらの合間を縫って、本当に暇そうな時に幸太郎にドイツ語の手解きをしていた。
*
フンボルトがプロイセンに戻ると言い出したのは、それから一年経つか、経たないかくらいの頃であった。
ある日の晩餐で、眉間に皺を寄せながら、彼はカロリーネ夫人と幸太郎の前にその意を明らかにした。
「僕はプロイセンに戻ろうと思う」
とは言え、その表情からは苦悩の痕が見受けられた。フンボルトは続ける。
「気は進まないが……クントからの頼みだ」
「クントさんって……あの家庭教師の方だった?」
「そうだ」
カロリーネ夫人の問いに、フンボルトは答えた。
「今は国家顧問官をしているらしい。何で呼ばれたのか分からないが、僕にプロイセンに帰国して、政府の改革事業に参加して欲しいんだそうだ」
「それはそれは……」
カロリーネ夫人は微笑みながら言った。
「大役を仰せ付かりましたね。大変ですが、ご期待に応えなくてはなりません」
フンボルトは頷いた。
すると、彼は聞き役に徹していた幸太郎のほうを向いて言った。
「幸太郎はどうする? 我らは遅かれ早かれ、ここを引っ越す。どこかに行く当てはあるのか?」
「ありません」
幸太郎は即答した。当然、彼にはフンボルト家の他にしか伝手は無かった。フンボルト家がここを去るなら、付いていくしか無いのだ。幸太郎は続ける。
「ここに残るのも心細いので、プロイセン行きに同行してもよろしいでしょうか?」
フンボルトは首肯して言った。
「分かった。しかし一家で大挙して行くのは難しい。貴方にはしばらくの間、カロリーネと共にここに留まって欲しいが……」
「あら、家のことなら心配要りませんわ」
フンボルトの心配をよそに、カロリーネ夫人は言った。夫人は幸太郎に向かって言う。
「旦那様と共に行きたければ、そうして良いわ」
幸太郎はカロリーネ夫人の言葉に安心したようだった。
「僕も出来れば旦那様とご一緒したいです。未だドイツ語での会話に自信がありませんし、早く皆様の助けが無くともやっていけるようになりたいのです」
幸太郎の言葉に、フンボルトは溜息を着いて言った。
「分かった。我らを迎えに一個小隊が来る。彼らにはそのように伝えておく」
「一個小隊?」
フンボルトの言葉に不審な点を見つけた幸太郎は、それを復唱した。何故、突然軍隊の話が出て来たのだろうか? この時代の旅行は、その助けを必要とする程、危険なものなのだろうか? 幸太郎はフンボルトに問うた。
「何故護衛が必要なのですか? 山賊でも出るのですか?」
その質問にフンボルトは驚いた様子だった。カロリーネ夫人もびっくりして逆に訊ねて来る。
「幸太郎、まさか〝あれ〟を知らないの?」
幸太郎は何の事を言われているのか分からず、首を傾げた。それを見てフンボルトは呟いた。
「山賊……山賊だったら、どんなにマシだっただろう!」
*
その年の十月、ついにフンボルトが旅立つ時を迎えた。フンボルト家への来客を告げる、入り口のドアをノックする音が聞こえた。カロリーネ夫人がドアの隙間から覗くと、アジア風の顔の女性の将校が、同じくアジア風の男性軍人を従えて立っている。
女性将校はカロリーネ夫人の視線に気付き、声を掛けて来た。
「ローマ公使ヴィルヘルム・フォン・フンボルト男爵のお住まいはこちらか?」
「はい、おりますわ」
カロリーネ夫人が答えると、女性将校が言った。
「我らはプロイセン王国王妃陛下麾下の日本人部隊。フンボルト男爵をお迎えに参りました」
ついにお迎えが来た、とカロリーネ夫人は思った。しかしあくまでも微笑んだまま、彼女は答える。
「わかりました。今呼んで来ますわね」
*
幸太郎は執務室のドアをノックした。すると中からフンボルトの「どうぞ」の声がした。幸太郎はそれに従い、入室した。
「失礼します。」
フンボルトは窓の外を見ながら、考えに耽っているようだった。彼が幸太郎に訊ねる。
「少し遅かったじゃないか、どうかしたのか?」
幸太郎は目線を泳がせた。
「少し準備に手間取りました。もう大丈夫です」
準備に手間取ったのは事実だった。幸太郎にはちょっとした計画があり、その最終調整に時間を掛けていた。
「そうか」
フンボルトは幸太郎のほうを向く。神妙な面持ちであった。
「それでは貴方に話がある」
そう言うとフンボルトは、机の引き出しを開けた。黒光りのする、重たそうな塊が取り出される。幸太郎がそれを見ると、リボルバー式の拳銃であった。フンボルトが言う。
「これを貴方に預ける」
「これは……拳銃……ですよね?」
確認するように幸太郎は言った。自分でも驚くほど冷静であった。
彼は拳銃を前にして、目が離せなかった。心臓がドキドキするのを感じる。手は震え、冷汗が出て来た。
フンボルトも冷静そのものであった。
「そうだ。知らないわけでは無いようだな」
幸太郎は恐る恐るフンボルトに訊ねた。
「こんな危険な物が必要な旅なのですか?」
「街の城壁の外のほうがよっぽど恐ろしいぞ!」
フンボルトは叫んだ。その声の大きさに、幸太郎は思わず身体を震わせる。フンボルト自身も、自分が大声で怒鳴ったことに驚いたようだった。彼は一息着いて続ける。
「街の中と外では別世界だと考えても良い。城壁の外は危険な場所だ」
フンボルトは幸太郎を指して言う。
「貴方も忘れたとは言わせない、我が家に来た日、生ける屍に追われて来たことを」
幸太郎は一年前のことを思い出した。靴下とスリッパで街中を駆けずり回り、やっとフンボルト家に救助されたことを。街ではあれ以来生ける屍を見掛けることは無く、平和そのものの暮らしをしていたので、忘れかけていた。
幸太郎は驚いた様子で言う。
「街の外はあんなので溢れているということですか?」
「そうだ昔は生ける屍などいなかったのだが……」
最初に現れたのは革命下のフランスだったと言われている。フランスにしか出没しなかったが、戦争の拡大によって世界中に出現するようになった。国を守ろうとするフランス兵も、革命が広がるのを防ごうとする同盟の兵士たちも、皆等しく生ける屍となったのだ。
そう説明するフンボルトの口調は重々しかった。彼は続ける。
死んですぐの死体は、殆どの場合、生ける屍となった。だから街中にあった墓地や病院は、すぐに城外区に移転させられた。奴らを止める方法はひとつだけ、頭部を破壊することだ。
フンボルトは拳銃を手に取り、幸太郎に銃把を向けた。
「奴らは生きている人間を見つけたら一目散に寄って来る。軍隊に守ってもらうことになっているが、〝もしも〟ということも有り得る。その時のために持っておくんだ」
幸太郎は恐る恐る、フンボルトから拳銃を受け取った。思ったより、ずっしりと重い。今までの人生では触ることも無かった武器に命を預けることになったのだ。それが身体をも重くしていた。
再び、執務室のドアがノックされた。フンボルトも「どうぞ」と応える。ドアが開かれると、そこにはカロリーネ夫人が立っていた。彼女が口を開く。
「貴方、お迎えが来ましたわ」
フンボルトが応える。
「分かった、すぐに行く」
フンボルトはカロリーネ夫人と共に部屋を出た。振り返って幸太郎に言う。
「貴方も、それを仕舞ったらすぐに来るのだ」
「了解です」
幸太郎は拳銃を、とりあえずコートの胸ポケットに入れた。どっしりとした重みが、胸ポケットに収まる。幸太郎はフンボルト夫妻に続いて執務室を出ると、自室へと向かった。
*
幸太郎が荷物を持って玄関へ来てみると、前では女性の将校とフンボルトが立ち話をしていた。にこやかなその様子からは、フンボルトがローマにやって来る前から見知った仲だというのが分かる。
幸太郎はフンボルトに近付くと、彼に告げた。
「準備出来ました」
フンボルトは振り向いて答えた。
「分かった。もうじき出発出来るはずだ」
それを見て、女性の将校が幸太郎に話しかけて来た。
「貴方がフンボルト家に居候しているという日本人か?」
将校が眉間に皺を寄せてこちらを見ているので、幸太郎は緊張した。
それは男装の麗人とも言うべきひとであった。少し筋肉質ではあるものの、線の細い女性の身体に、プロイセン軍の紺青の軍服を纏っている。腰には西洋のサーベルではなく、日本刀が二本差してあった。そんな男性的な雰囲気の中で、艶のある長い黒髪を束ねるかんざしに桜の花が咲いていた。
「はい、そうですが……」
フンボルトは彼らの緊張した様子を見て、やっとふたりが初対面だったことに気付いたようだった。フンボルトは幸太郎に言う。
「彼はプロイセン陸軍所属のヨハネス・カズモリ・オウカダニ・フォン・ヨシノ大尉。ドイツに渡って来た日本人の子孫さ」
それを聞いて、幸太郎は目を丸くしてカズモリを見た。この時代にドイツに日本人がいることや、女性が軍人として働いていることに物珍しさを覚えたのだ。余程の事情があったのではないだろうか。そんなことを考えていたら、今度は将校に厳しい目で睨み返された。幸太郎はそっと彼女から目を逸らす。
フンボルトは続けて言った。
「彼は今回の旅の護衛隊長でもある。我々は彼らに命を預けるのだ」
幸太郎はカズモリに自己紹介する。
「神喰幸太郎です。宜しくお願いします。ええと……」
幸太郎がカズモリの名前を言い淀んでいると、カズモリがきっぱりと言い放った。
「櫻花谷一護だ。〝一護〟で良い」
カズモリの日本語は、時代が異なるせいか幸太郎には発音が奇妙に感じられた。しかし、それでも久しぶりに日本語が聞けて彼は嬉しかった。
幸太郎はにっこり笑って言う。
「では、僕のことも〝幸太郎〟とお呼びください、カズモリさん」
彼は片手を差し出した。けれどもカズモリはにこりともしない。
「ああ、よろしく、コウタロウ」
それでもカズモリは握手に応じた。
その後カズモリは、フンボルトと共にカロリーネ夫人の元へ、もうひとりの同伴者であるフンボルトの次男・テオドールを迎えに行った。幸太郎も後を追い駆けるように、夫人の元へ向かおうとする。
だが、突然幸太郎の目の前にひとりの軍人が立ち塞がった。幸太郎はそれを恐る恐る見上げる。顔立ちはカズモリと同じく日本人のそれであったが、しかし軍人の背丈は二メートルを超えているように思われた。軍人に見下され、幸太郎は狼狽えた。彼はこの軍人に対して無礼を働いた覚えはなかった。幸太郎は震えながら訊ねる。
「なんでしょうか?」
軍人ははっきりとした口調で言い放った。
「一護〝さん〟ではない、一護〝様〟だ。あの御方は貴様が易々と口を聞いて良い相手ではない。口を慎むのだ」
言い終えると、軍人はさっさと持ち場へ戻って行った。びっくりした……と幸太郎は独り言つ。軍人の背中を見送ると、幸太郎は再びカロリーネ夫人の元へ急いだ。
その頃、カロリーネ夫人はフンボルトとカズモリが見守る中、次男のテオドールとの別れの儀式を行っていた。未だ幼いテオドールに視線を合わせ、その頬にキスし、強く抱きしめる。
「テオドール」
と、彼女は次男に呼び掛ける。その声からは、我が子を心配する悲しげな気持ちが滲み出ていた。
「お父様の元で良い子にしているのですよ」
「はい、ママ」
次にカロリーネ夫人は夫であるフンボルトを見上げた。
「貴方、テオドールをよろしくね」
しかし見上げられたフンボルトは、どこか上の空気味であった。
「ああ、分かっている」
更に、夫人はカズモリのほうを見た。その瞳は懇願するようでもあった。
「大尉、夫とテオドール、コウタロウさんのことをよろしくお願いしますね」
カズモリは軍人らしくきっぱりと応える。
「はっ、御一行は我が隊が責任を持ってお守りします!」
これに至って、やっと幸太郎がやって来た。その手には紙が丸められて筒になってあった。それに気付いて、カロリーネは立ち上がった。
「コウタロウさん……」
幸太郎は改まった様子で言う。
「カロリーネ夫人、短い間でしたが、お世話になりました」
彼は手に持った紙の筒をカロリーネ夫人に差し出した。
「拙い絵ですが……お礼の気持ちです。フンボルト家の皆さんを描きました!」
そう言われて、カロリーネ夫人は紙を受け取り、広げて絵を見た。フンボルトも訝しげに覗き込む。
それは画用紙に水彩で描かれた集合絵だった。ソファに腰掛けるフンボルト夫妻の膝元で、一男三女の兄妹たちが遊んでいる。様々な色の草花で遊ぶ子供たちを、夫妻は慈愛に満ちた目で見守っていた。中でも絵の中のフンボルトは、テオドールを大切そうに抱きかかえていた。
「まあ綺麗!」
嬉しそうに微笑みながら、カロリーネ夫人が言った。
「子供たちも可愛らしく描かれているわ」
フンボルトも感心した様子で首肯する。
「ほう、大したものだ。貴方は絵を描くのが上手いのだな」
カロリーネ夫人は幸太郎に握手を求めながら、笑顔で言った。
「ありがとう、コウタロウさん。家族を描いてくれて嬉しいわ。大切にするわね」
こうして幸太郎とフンボルト、そしてその次男・テオドールの一行は、プロイセンの首都であるベルリンに向けて旅立った。