ローマ市門が開かれると同時に、教会の鐘がけたたましく鳴らされた。幸太郎にはそれが、旅立つ者を祝福するようにも、はたまた外敵の襲来に備えるよう警告しているようにも聞こえた。
何しろ市壁の外は街とは比べ物にならない、血液をぶちまけたような赤い世界が広がっていたのだ。しかし城外は荒野が広がっているのではなく、寂れた石造りの街が並んでいた。ぶちまけられた赤は、建物に貼り付いて成長した結晶だった。
幸太郎はローマから出て初めて見る城外区を、紺色の軍服の上からおよそヨーロッパのそれとは思えない黒い甲冑を着込み、槍や短銃を携えた兵士たちに守られた馬車の中から、ぼんやりと眺めた。
「市壁の外は初めてか?」
隣に座るフンボルトが訊ねる。
「はい、大変興味深いです」
幸太郎は顔を窓に近付けながら答えた。馬車列よりも離れたところに、人影らしきものを認めたのである。あれは生ける屍だろうか、それとも……?
そんなことを考えていると、フンボルトが誰に向けてでもなく話し始めた。
「城外区も革命前は大いに栄えていたが、生ける屍が発生するようになると寂れてしまってね――」
元々市壁は、十七世紀後半から解体が始まったのだ。理由は色々あるが、王権の一円的支配によって、都市が自らを防衛する必要が無くなったのが大きい。
だが生ける屍が発生するようになってからは話は別だ。都市は再び自らを守るため、市壁を活用するようになった。屍の存在によって、都市空間は中世まで退化させられたと言っても良い。
フンボルトは深く溜息を着いた。ふとももの上に載せられた両手は強く握りしめられている。
一方で、そんな生ける屍の被害に遭うことは、馬車に乗っている限り無かった。正確に言えば襲われることは何度かあったが、そのたびに護衛の小隊が一致団結して屍を鮮やかに排除してくれた。人間の叫びや剣戟の音、銃声などは盛んに聞こえたが、馬車の中で伏せている限りは戦いの様子を見ることすら無かった。幸太郎は襲来のたびに胸ポケットに仕舞った拳銃をいつ撃つか分からず、震えていた。けれども、あの女性軍人率いる小隊が襲い来る屍の群れから守ってくれるたび、胸を撫で下ろすのだった。
*
そうした旅程の途中、ついに一行はイタリアとオーストリアを隔てる山脈に差し掛かった。
その日はとても冷たく激しい雷雨に見舞われた。小隊は山中で一夜を明かすための宿を、濡鼠になりながら探し回り、ついに一行はその宿を発見した。古いが美しい、フンボルトたちのような貴族を迎えるための高級宿であった。隊員たちが馬車を停車場に引き入れ、嘶く馬を厩舎に連れて行くのを尻目に、一行は宿へ駆け込んだ。
宿の中は雷雨の中にあるのも手伝って薄暗い。わずかなオイルランプや蝋燭が、暖炉の炎と一緒になって、質素な土壁を照らしていた。
フンボルトは衣服に掛かった雨水を払いながら、大きな声で宿の主人を呼んだ。
「宿の主よ! 宿の主はいるか?!」
宿屋の主人は奥の部屋から急いで駆けつけた。
「いらっしゃいませ、お足元が悪い中、ようこそお出でくださいました」
旅の一行に負けず劣らずの慌てようである。フンボルトは落ち着いた様子で話しかけた。
「急にすまないな、とりあえず拭くものをくれないか?」
「はい、すぐに用意します」
宿屋はそう答えると、すぐ下がろうとした。
すると、どこからともなく子供のような、はたまた老人のような声がした。
「拭くものならそこのテーブルに置いておきやしたぜ」
一行は声の言う通りにすぐ近くのテーブルを見た。すると、いつの間にかタオルが大量に用意されてある。驚く一行を尻目に、宿屋は平然と声に応えた。
「おお、助かるよ」
「お安い御用でさ」
声は機嫌良さそうであった。
しかし、不思議な声の存在を宿屋のように平然と見過ごせないのはフンボルトの一行であった。皆で暖炉の前のスペースを仲良く分け合いながら身体を拭いていたが、声の存在を訝しみ、周囲をそれとなく見回している。幸太郎も声の存在を不思議がるひとりであった。彼もびっしょりと濡れた頭をタオルで乾かしていたが、ふとすぐ近くの椅子の足元に目をやると、そこを白い靴下を履いた子供が通ったように見えた。この宿には子供が居るのだろうか……?
そんなことを疑っていると、当の宿の主人が一行の元へやって来た。
「お食事の用意が出来ております、どうぞこちらへ」
「ああ、すまない」
皆が身体を拭き終えると、フンボルトに続いて一行は食卓に就いた。彼らは深く溜息を着いてから食事を始めた。
「全く、やれやれだ」
「ですが、良いところに宿が見つかり、僥倖でした」
そう答えたのは護衛隊長のカズモリだ。彼女の顔には微笑が浮かんでいる。
「ああ、全くだ」
幸太郎も同意する。彼は護衛の隊員たちを見渡して言った。
「ここを探してくださった隊員の方々には、感謝をしなくてはなりませんね」
幸太郎の言葉に、フンボルトは首肯して返す。
「そうだな、ここへ無事に案内してくれて、ありがとう」
彼は杯を掲げて呼び掛ける。
「だが、旅程もまだまだこれからだ。無事にプロイセンに帰れるよう、皆英気を養ってくれ!」
一同はフンボルトに倣い、各々の杯を掲げる。そして彼の「乾杯!」と共に、その杯を空けた。
その時、笑い合う一同に割り込んでくる声があった。陽気に笑う子供のような老人でもあるようなそれは、先程も聞いた不思議な声だ。
「今夜は雨に降られて大変でしたね、お客さん方! 一緒に飲みましょうや!」
途端に今空にしたばかりの杯に、酒が再び満ちた。それが皆の杯に平等に同時に起こったことにより、一同は杯を二度見したり、目を丸くしたりした。
カズモリは顔を強張らせて立ち上がった。腰に差した太刀に手を掛ける。
「先程から奇妙な技の数々……お前は一体何者だ?! 名を名乗れ!」
カズモリが物騒なものを手にしたのを見て、宿屋の主は慌てた。
「そんなにカッカしないでくだされ、軍人さん!」
宿屋は声の主を弁護して言う。
「彼はこの辺りの山に棲んでいるコーボルト。たまにここへやって来るんです。気のいい奴ですよ」
宿屋の言葉を継ぐように、コーボルトが言う。
「そうですよ。私も敬虔なキリスト教徒の端くれ、悪いことは致しません。私のことは〝靴下ちゃん〟とでも呼んでくださいな、仲良くしましょう、皆さん」
しかしカズモリは、太刀に手を掛けたまま、辺りを警戒していた。フンボルトはコーボルトに向かって呼び掛ける。
「しかし我々の前に姿を見せないのは、どうにも信用出来ない。せめて一度、姿を見せてはくれないだろうか?」
それは一同を守ろうとしているカズモリと、一同と交流したいコーボルトとの和解案であった。しかし、このフンボルトの提案にコーボルトは乗らない。
「それは出来ない相談だ」
それどころか深い溜息を着いて、不信感を露わにする。
「そもそも、そちらの殆どはキリスト教徒ですら無い様子。異教徒の前に姿を現すなんて、到底出来ないね」
カズモリは眉間に皺を寄せて舌打ちした。鍔が押し退けられ、太刀が鞘から抜ける音がする。宿屋は青ざめてカズモリの目の前に躍り出た。
「お、お止めください、軍人さん……!」
その時、一触即発の場面だと言うのに幸太郎は興味本位で口を開いた。
「その姿とは、子供くらいの体格で、靴下を履いていますか?」
その発言に、一同は幸太郎に注目した。時が止まったようであった。驚愕の一言に静寂が訪れる中、コーボルトだけが狼狽えている。
「あわわわ、どうしよう? 異教徒なんぞに姿を見られてしまったというのか……?!」
部屋を照らす蝋燭やランプの灯が、コーボルトの声に合わせて揺らいだ。小びとだけでなく、部屋全体が泣いているようであった。
「もうこれ以上、この場には居れん……」
瞬間、雷鳴が大音声で轟いた。世界から光が全て無くなってしまったかのように、部屋の明かりが消える。皆は慌てふためいた。男共の「明かりが消えた!」「早く点けろ!」という声で部屋がいっぱいになり、懸命に燐寸が擦られる音が続く。数秒して、明かりは復旧した。
「皆大丈夫か?!」
フンボルトが一同の安否を確認しようと見回すと、顔面蒼白で震えている宿屋の主が目に入った。彼はカズモリの前に突っ立ったまま、シャツの胸元を握り締めている。
「ああ……どうしよう、あいつは往ってしまった……!!」
宿屋の主は真っ赤になって震えながら、カズモリに食って掛かった。
「何てことをしてくれたんだ、お客さん方! あんたたちのせいであいつが去ってしまった!」
口をポカンと開けて呆然としているカズモリと、彼女に掴み掛かろうとしている宿屋の間にフンボルトが割って入る。彼は宿屋の主の目を見て話し出した。
「宿屋の主人よ、すまない。まさかこんなことになるとは……」
フンボルトは宿屋の肩を叩いて慰めた。しかし慰められているほうは、悲しみに暮れて涙を流している。
「もう駄目です、手遅れなのです……」
宿屋の主は涙を拭いながら、一行から離れていく。
「お客さん方、部屋のご用意はありますが、夜明けと共に出発したほうが良いですぜ」
そう告げると、彼は店の奥へと去って行った。
奥の扉が閉まる大きな音を聞き届けると、カズモリはストンと腰を下ろした。顔を顰めて恨み言を漏らす。
「コーボルトのひとりやふたりで大げさな……」
「だが、主人がああ言っているのだから仕方無い」
フンボルトが深い溜息を着きながら言った。
「明日は夜明けと共に出立しよう」
ふたりの会話を見守っていた幸太郎が、一件落着したと胸を撫で下ろしながら後ろを振り向くと、席に座っていたフンボルトの次男・テオドールがうつらうつら眠たそうにしていた。もう夜も遅かった。幸太郎はテオドールに訊ねる。
「眠たいのかい、テオドール?」
「うん……」
最早返事をするのも億劫そうだ。幸太郎は一息着いているフンボルトに言った。
「旦那様、テオドールが眠たそうにしているので、客室に連れて行きますね」
フンボルトは答える。
「ああ、分かった。よろしく頼むぞ」
それで皆が疲れていることに気付いたのか、フンボルトは再び立ち上がって呼び掛けた。
「皆も食事を摂り次第、休んでくれ」
*
窓から差し込む日差しが眩しくて、幸太郎は目を覚ました。宿屋のベッドは至極硬かった。幸太郎は取れた気がしない疲れに、肩を回しながら起き上がる。今朝は夜明けと共に出立するはずだったので、彼は急いで身なりを整え、一同が集合しているはずの食堂へ向かった。
思った通り、食堂には一同が集まって話し合っている。しかし異様に騒然としているその様子は、幸太郎には異変を感じさせた。
よくよく見ると、話の輪の中心には青ざめて頭を抱えて座っているフンボルトの姿があった。その横では昨夜以上に取り乱した様子の宿屋の主が、落ち着かない様子で立っている。店の入り口付近では護衛隊の隊員が忙しく行き来しており、それらとカズモリが代わる代わる話し合っていた。
いよいよただ事では無いと幸太郎は思った。彼は近くに居たいちばん目立つ図体の隊員――以前幸太郎を威圧して来たひとだ――に声を掛けた。
「何があったんですか?」
隊員は相変わらず幸太郎を見下ろしながら答える。
「フンボルト男爵のお子様が悪魔に攫われたのだ」
「悪魔……!」
幸太郎は手に汗握った。テオドールが攫われたのは勿論衝撃的だったが、何より悪魔が関わっていることには驚かされた。約一年音沙汰が無かった悪魔の話題に、ようやく辿り着けたのである。
隊員は続けて言う。
「否、正しくは〝取り替えられた〟と言うべきか。朝お子様を起こしに男爵が向かったところ、ベッドで寝ていたのは頭に山羊の角が生えた悪魔の仔だったと言うのだ」
「悪魔の仔はどうなったんです?」
幸太郎は一瞬、テオドールのことより悪魔のことを気にした自分を恥じた。つい悪魔の手がかりを気にしてしまっていた。
その時、山羊が低く啼く声が唐突に聞こえた。幸太郎は周囲を見回した。
それには気付かない様子で、隊員は苦笑した。
「悪魔のほうを気にするとは、可笑しな奴だな。最も、既に山に還したがね」
「では、誰も悪魔に直接会ってはいないんですね?」
再び山羊の啼く声が幸太郎の耳に入った。
幸太郎が山羊の声を気にする一方で、隊員は平然として返答する。
「悪魔に会えるものか! 馬鹿なことを言う奴だな」
ここでまた山羊の声が幸太郎の耳を支配した。幸太郎はいよいよ辺りを見回し、隊員に訊ねた。
「ここらへんに山羊を飼っている家はありますか?」
隊員もまたいよいよ訝しげに答えた。
「この辺には無いようだが?」
その時、カズモリがこちらを向いて「サコン・シマ=ツシマ!」と呼び掛けた。これが隊員の名前らしかった。隊員もまた「Ja, Madame!」と返答する。
シマ隊員は幸太郎に向き直り、
「とにかく、お子様は行方不明のままだ。お前は旦那様を励まして差し上げるんだな」
と言って去って行った。
幸太郎はシマ隊員の言う通り、フンボルトと話すことにした。自分はただの居候であり、戦闘員でもなく、捜索の技量も無いので、それしか出来ることが無いのは明白だった。
行くと、フンボルトは前髪をくしゃくしゃに掻き上げたり、或いは下ろすを繰り返して、落ち着かない様子であった。幸太郎が横に座ると、やっとそれを止め、彼のほうを向いた。
「幸太郎か……」
幸太郎は何も言わない。大丈夫か訊ねようにも、大丈夫では無いのは明らかだった。フンボルトは目線を目の前に用意されて放置されたコーヒーの水面に遣る。
「テオドールのことは聞いたか?」
「はい」
幸太郎が短く返事する。フンボルトはコーヒーの静かな水面を見つめたままだ。彼は再び幸太郎に訊ねる。
「貴方がテオドールを寝かしつけた時は、確かにあの子はテオドールだったか?」
「確かにテオドールでしたよ」
幸太郎はこれには自信を持って答えた。フンボルトは弱った様子で「そうか……」と呟いた。目の前の冷えたコーヒーを啜る。
再び静寂が訪れた――と幸太郎が思ったのも束の間、フンボルトは再度口を開いた。
「テオドールが悪魔と取り替えられているのを見た時、どうせ悪魔の御業なら長男のヴィルヘルムと替わっていて欲しかったと思った」
「えっ、ちょ長男……?」
幸太郎は突然の告白に、言葉を詰まらせた。何しろ長男の存在など、今まで話題に登って来なかったのだ。
また再び山羊の啼く声がした。今度は幸太郎の耳元で啼かれた気がし、彼は気が気でなく、手を耳元で扇いだ。
フンボルトはそんな幸太郎に構わず話し続ける。
「貴方が我が家に来る数年前、我が家には他にも三人の子供たちが居た。中でも長男のヴィルヘルムは私の最も愛した息子だった。貴方が出発前に家族の絵を披露した時、嬉しかったと同じに、今生きていない子供たちが描かれていないことが悲しかった」
幸太郎は黙って聴いている。
しかし山羊の啼き声も相変わらずで、幸太郎は集中力を保つのが精一杯であった。
「だから病弱なテオドールの代わりに、ヴィルヘルムが再び我が家に戻って来てくれたら、と考えてしまった」
悲しみに打ち拉がれ、膝の上で握られた手を震わせているフンボルトに、幸太郎はついに声を掛けた。
「旦那様、色々な考えがお有りでしょうが、今はテオドールのことを考えましょう」
幸太郎は彼なりにフンボルトを励まそうとしていた。
「旦那様は疲れていて、弱気になっているのです。お休みになってください」
「ああ、そうだな」
その時、また山羊の啼く声が幸太郎の鼓膜を破らんとする勢いで轟いた。あまりに五月蝿くしつこいその啼き声に、幸太郎は眉を顰めて辺りをぐるぐると見回した。フンボルトが彼の表情を覗き込んで訊ねる。
「どうした? 幸太郎……」
幸太郎はあくまで笑顔でフンボルトに訊き返した。
「山羊の啼く声がしませんか?」
「聞こえないが……」
フンボルトもひと通り辺りを見渡して、続けた。
「空耳ではないか?」
幸太郎は納得いかない様子で繰り返し周囲を見ながら言った。
「そうですか……」
怪訝そうな幸太郎に、フンボルトも気を遣った。
「貴方も疲れているのではないか? 朝食は食べたか? 宿屋に出して貰うと良い」
幸太郎は確かに、起きてから食事を全く摂っていなかった。お腹が鳴るのを久しぶりに聞いた彼は席を立ちながら言う。
「はい、そうします」
幸太郎は頭を捻った。先程から自分の耳に主張してくる山羊の声は、いつぞや聞いたことがある気がしていた。
それはともかく、幸太郎は狼狽えている様子の宿屋に声を掛けた。
「宿屋さん、朝食の準備をお願い出来ますか?」
宿屋はやっと我に返ったようだった。
「あっ、はい、そうですね。すぐに用意します」
そう答えると、宿屋は店の奥の部屋へ引っ込んで行った。
すると、宿屋が先程まで突っ立っていたところの陰から、山羊の頭、女の胸、魚の下半身、蝙蝠の翼を背に生やした異形のモノが現れた――悪魔だ。
それに気付いた幸太郎は驚いて小さく跳び上がった。見る見る顔が紅潮していくのが分かる。思わず顔を反らし、天を見上げた。
ああ、悪魔と出遭うのは約一年ぶりであった。今回の誘攫の黒幕であり、自分が現代に戻るための手掛かり、そんな存在を目にして、興奮しないなど出来るものか。
しかし幸太郎は我慢した。ここで悪魔の姿を目撃したと知られるのは不味い。
だが悪魔は鈍感であった。悪魔は再びひと啼きすると、宿の裏口の扉を開けて出て行った。幸太郎も悪魔が扉から充分に離れただろうタイミングを見計らい、宿を出る。
手掛かりを決して逃すまいと固く誓った。彼はいつか小耳に挟んだ「幸運の女神には前髪しか無い」という言葉を思い出していた。今の幸太郎にとって、悪魔こそが幸運の女神だ。
悪魔に気取られないよう、誰にも見つからないように用心しながら、幸太郎は悪魔の後を追う。悪魔はひとが歩くのと同じ速度で、森の獣道に入って行く。
途端に悪魔の歩みが止まった。仔山羊の啼き声がする。あれがテオドールと取り替えられた悪魔の仔というやつだろう。
幸太郎は、今のうちに悪魔の進路を先回りし、木の陰からこれを捕まえることを考えた。自分をこの時代へ連れてきた悪魔の先手を取れると思うと、胸が高鳴る。けれども幸太郎は冷静でいることを忘れなかった。茂みに隠れながら息を殺して、彼は悪魔の目の前の木の陰に入った。
悪魔は仔を抱えたまま動かない。幸太郎は悪魔さえ捕まえれば、どうとでもなると思った。彼は勢いをつけて、悪魔に向かって飛び掛かった! 悪魔が一瞬頭を上げたのが目に入ったが、もう遅かった。幸太郎は悪魔を押し倒し、馬乗りになって抑えた。
幸太郎は勝ち誇って叫んだ。
「ここまでだ、悪魔め!」
悪魔は盛んに山羊の声で啼いた。首を左右に振り、周囲を見回している。幸太郎は顔を真っ赤にして、早口で続ける。
「僕をこの時代に連れて来た挙げ句、テオドールを攫うなんて! 早くテオドールを戻すんだ! それが済んだら、僕を元の時代に還して貰うぞ……!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
悪魔は慌てて口を開いた。しかし次の文句をどう言ったものか、考え倦ねているようだった。散々「えっと」「あの」を繰り返して、やっと言葉を紡ぐ。
「子供を取り替えたのは私ですが、貴方のことは知りません!」
「何だって……?!」
言われて、幸太郎は急に冷静になった。悪魔は幸太郎の身体の下で藻掻いている。
「放してくだされ……!」
しかし幸太郎は悪魔に抵抗した。突然時代も国も超えて連れ去られて来た上に、およそ一年も放置された憎悪を思い出し、一生懸命押さえつける。
「そんなこと言って……出鱈目を言っているんじゃないのか?!」
悪魔も言い返した。
「悪魔は嘘は申しません! 本当のことでございます!」
「本当に〜?」
尚も疑う幸太郎に、悪魔は答える。
「神に誓って本当です」
これには幸太郎も折れる他無かった。
「詳しく話してくれるなら……」
「分かりました」
幸太郎は渋々、悪魔の身体の上から降りた。悪魔が上体を起こすと、ふたりは互いに向き合う。
しかし幸太郎は未だ悪魔を疑っていた。
「で、テオドールを攫ったのはお前だけど、僕を連れてきたのは別の悪魔ってこと?」
悪魔は回答した。
「はい、その通りでございます。あの宿に居た子供とこの仔を取り替えたのは私です」
そう言いながら、悪魔は仔を見せてきた。それは確かに仔山羊の顔をしている。幸太郎は訊ねた。
「何でお前は子供を取り替えたりしたの?」
「大した理由はございません」
悪魔はあっけらかんと答えた。
「ただ子供を取り替えたら面白そうだと思ったまでのこと」
「そんなことで子供を攫っていいと思っているのか?!」
幸太郎は立ち上がって怒鳴った。ただのいたずらでフンボルトが悲しみに暮れているのを思い出し、腹が立ったのだ。しかし悪魔はそんな幸太郎に言い返す。
「では何でしょう? 立派な理由があれば取り替えて良いのですか? 子供が親に愛されていないのが哀れだった、とかならどうですか?」
「話しの揚げ足を取るな」
けれども幸太郎は、先のフンボルトの告白を思い出し、他に言い返しようが無いことを思い知らされた。いっそ悪魔の言う通りならばどんなに良かったか!
幸太郎は悪魔に言った。
「とにかく、お前の悪事は明らかになったんだ。テオドールを戻し、僕も元の時代に還して貰おうか」
「嫌です!」
悪魔はきっぱりと言い放った。
「子供のことならともかく、何故私が他所の悪魔の仕事に手を出さねばならないのです?」
「そりゃそうだけど――」
幸太郎は不平を言った。やっと得た悪魔とのつながりを放したくなかった。
「あの悪魔とは一年も音信不通なんだ。頼れるのはお前しか居ないんだよ!」
「これは悪魔の掟でもあるのです。貴方が元居た場所に戻りたければ、貴方を連れて来た悪魔を探すしか無いでしょう」
掟の話を出されては、流石に幸太郎も黙り込むしか無い。しかしこれで貴重な手掛かりを得たとも思えた。自分が元の時代に戻るには、是非あの悪魔を探し出すしか無いのだ。
「さて」と悪魔は再び口を開く。
「私は取り替えがバレたので、あの子供を還さねばなりませんね」
幸太郎はこの言葉に我に返った。すっかり自分の事情のことで白熱していたことに気付いたのだ。テオドールのことを思い出し、幸太郎は叫ぶ。
「そうだ、早くテオドールを帰すんだ!」
そんな幸太郎に構わず、悪魔は話し続ける。
「しかも貴方という人間に姿を見られてしまったので、私の命はこれまででございます」
「何だって?!」
幸太郎は口をポカンと開けて驚いた。急に話が悪魔の命に及んだので、何を話されているのか分からなくなった。悪魔は両手をひらひらと上に挙げて言う。
「悪魔の掟ですので、仕方無いのでございます」
幸太郎は悪魔に再び慌てて飛び掛かった。
「そんなこと言ったって……テオドールはどうなるの?!」
興奮した幸太郎に対し、命が今にも終わる運命の悪魔は落ち着き払った様子で答える。
「それでは、私の最期の力で貴方をあの子供の元へと送り届けますので、ご自分で子供を保護してください」
「はあ?!」
しかし、提案を受け入れられない様子の幸太郎に、悪魔は取り合わなかった。震える手を差し伸べて来る幸太郎に構わず、悪魔は別れを告げる。
「では、これにて。然様なら」
途端に、悪魔が笑って風船のように弾けた。実際に大きな風船が破裂する音が、幸太郎の鼓膜を叩く。彼は思わず目を閉じてしまった。
幸太郎が次に目を開けた時、そこは鬱蒼とした広葉樹の森が広がっていた。目の前をよくよく見つめると、確かにテオドールが木の葉のベッドの上で安らかに眠っている。けれども幸太郎を再び見ず知らずの場所へ送り込んだ悪魔の姿は、二度と見なかった。
*
「フンボルトの旦那様、お連れの日本人の方はいらっしゃいませんか?」
と、宿屋は俯いて席に腰掛けているフンボルトに話しかけた。フンボルトは宿屋の主の問いに、やっと顔を上げる。
「いや、貴方の元へ食事の用意を頼みに行ったきり、見ていない」
その時、カズモリが近隣の住民や、自分とは違うデザインの軍服を着た兵隊を連れて、店に入ってきた。声高に報告する。
「フンボルト男爵、近隣の自警団や軍の方々の協力を得られました! 山狩りを実施出来そうです」
「おお、それはありがたい」
そう言ってカズモリたちを出迎えながら、フンボルトは続けて問うた。
「時に大尉、幸太郎の姿を見なかっただろうか?」
「いえ、私は見ておりませんが――」
答えながら、カズモリは顔を強張らせた。
「まさか奴も居ないのですか?!」
フンボルトは後頭を掻く。
「そうだ。先程、宿の主人に朝食の用意を頼んだきり、姿が見えない」
カズモリは宿屋に訊ねた。
「主人よ、宿じゅう探したのか?」
訊かれた宿屋は身体を震わせながら頭を抱えている。
「はい、客室も全て伺いました」
その時、隊員から何か聞きつけたらしいシマ隊員が、カズモリに向かって言った。
「申し上げます! 隊員のひとりが宿を出て行く奴の姿を見たと言っております!」
「何だと?!」
カズモリはシマ隊員を睨めつけて叫んだ。彼女は冷静に振る舞おうとしていたが、最早息も荒く顔が紅潮しているせいで、この非常事態に単独行動を執った幸太郎に対する怒りが爆発しているのは明らかであった。
一方、フンボルトは脱力し、椅子に崩れ落ちた。近くに控えていた隊員が彼に駆け寄り、身体を支える。
「男爵、お気を確かに!」
隊員がフンボルトの顔を覗き込むと、顔を蒼くして呆然としていた。
また、自分の店の宿泊客から行方不明者がふたりも出てしまった宿屋は、途方に暮れた様子で身体をすぼめて背中を丸めている。
「あわわわわ、どうしよう……」
絶望に任せて、宿屋は叫んだ。
「この店はもうお終いだ……!」
その時であった。突然皆が集まっている部屋に、あのコーボルトの声が響き渡ったのだ。
「おやおや、戻って来てみれば……これは一体どういう騒ぎですかい?」
「この声は、あのコーボルトの声?」
コーボルトの子供のような、はたまた老人のような声を聞いたカズモリは、太刀の柄に手を掛けた。それを感じ取ったらしいコーボルトが嗜めるように言う。
「異教徒よ、私は宿の旦那に話しかけたんだ。無闇に割り込んで来ないでおくれ。それに名乗っただろう、〝靴下ちゃん〟と」
剣呑がるカズモリに対し、宿屋の主は九死に一生を得た様子で跳び上がって喜んでいる。
「ああ、靴下ちゃん、我が小びとの友よ! 再び交流出来て本当に嬉しい!」
「俺もだよ旦那」
靴下ちゃんも部屋に笑い声を響かせる。
「旦那の困りごとは俺の困りごとだ。何でも助けてあげるよ」
この小びとの一言に、皆は次に繰り出されるであろう宿屋の言動に注目した。そんなことはいざ知らず、宿屋は友に訴える。
「ああ、靴下ちゃん。実はお客さんが悪魔に攫われてしまったんだ。連れ帰ってはくれないかい?」
「おお、それは昨夜の御一行のことかい? 確かにふたり足りないが……異教徒のお客さんに、そんな義理は無いよ」
きっぱり言い放たれた言葉に、フンボルトは立ち上がった。
「そんなこと言わないでおくれ、靴下ちゃん!」
彼は「ひとりしか助けない」という小びとの言葉に反抗した。続けて言う。
「息子のテオドールも、友人の幸太郎も、僕にとっては大切な人間なんだ。何とか、ふたりとも助けられないか?」
「そうは言われましても……」
靴下ちゃんは不平を並べ立てた。
「ふたりですよ? 大変なんですよ?」
フンボルトは拳を握りしめ、はっきりと低く訴える。
「頼みの綱は貴方だけなのだ。人間だけの力では、日没までにふたりとも助けられない! 助けるには貴方の力が必要だ。頼む、お願いだ……!」
フンボルトは咄嗟にその場に跪いて頭を下げた。それはあの日本人の友人が、必死さを示す時に行うポーズに似ていた。それを見たお付きの隊員たちも、それに倣って頭を下げる。
しばらくして、靴下ちゃんが口を開いた。
「敬虔なキリスト教徒である貴方がそうまでして仰るのでしたら……」
フンボルトは頭を上げた。靴下ちゃんが続ける。
「では私がおふたりを探し、皆さんをおふたりの居場所へ案内するのはどうでしょう? もちろん、皆さんがおふたりを保護するまでの間、私がおふたりの身の安全を保証しますよ」
フンボルトは喜びに打ち震えて言った。
「ありがとう、靴下ちゃん! 小びとの友よ!」
靴下ちゃんもそれに応えるように言う。
「ではおふたりを探して来ますので、しばしお待ちくださいね」
*
テオドールが目を覚ますと、幸太郎が厳しい表情で自分の顔を覗き込んでいた。見れば自分の身体には宿屋の冷たい布団ではなく、幸太郎が着ていたであろう外套が掛かっている。テオドールはそれを退けながら上体を起こした。
「夢……?」
「そうだよ」
ホッとした様子で幸太郎が答える。テオドールは周囲を見回し、やっとここが宿屋でないことに気がついた。幸太郎に問う。
「ここどこ?」
「分からない。宿の近くだと思うけど」
そう答えた幸太郎は、深刻そうに声を低くして続けて言った。
「僕たちは、悪魔に攫われてここに来たんだ」
「悪魔?」
テオドールは下を向いて膝を抱き寄せた。
「やっぱりぼくは悪い子なのかなあ」
それを聞いた幸太郎は驚いて目を丸くした。
「どうしてそんなこと言うの?!」
幸太郎は先程のフンボルトや悪魔との会話を思い出し、やはりテオドール自身も察するところがあったのではないかと、目線をキョロキョロ動かしながら思いを巡らせた。
テオドールは当たり前のように答える。
「ヴィルヘルム兄さんが死んでから、父さんはいつも言ってるんだ。『何でヴィルヘルムが死んでしまったんだ』って、良い子だったのにって」
幸太郎は平静を装っていたが、考えが的中してしまい、ますます動揺した。掌はじっとりと手汗で湿り、喉の奥から唸り声が出る。
テオドールは続けた。
「ぼくはすぐ病気するし、父さんにはよく心配を掛けてた。だから悪魔がぼくを攫ったんだよ、きっと」
彼は膝を抱いて溜息を着いた。
「早く帰りたい……これ以上、父さんに心配掛けられないよ……」
そう言うと、テオドールは幸太郎の外套を完全に退けて立ち上がった。標高が低そうな地点へ向けて歩き出す。幸太郎はテオドールに向かって叫んだ。
「どこへ行くの、テオドール?!」
テオドールは幸太郎のほうを振り返って答える。
「どこって……宿屋に帰らないと」
幸太郎は無謀な行動をしようとするテオドールを止めようと、必死になって叫ぶ。
「今居るのがどこかも分からないのに、闇雲に歩くのは危険だよ! ここで助けを待とう!」
「助けを待つって……」
テオドールは虚ろな目で弱々しく幸太郎に問うた。
「幸太郎は父さんたちのことが心配じゃないの?」
幸太郎はきっぱりと言い放つ。
「とても心配だ」
そう言って、急に寂寥感に襲われた。
「とても心配だけど……」
幸太郎は不安で腕を組んだ。
「僕は心配されていないと思うなあ……」
彼は溜息を着いた。テオドールがトボトボと戻って来て、元居た幸太郎の目の前の位置に座る。
テオドールが問う。
「どうしてそう思うの?」
幸太郎は吐き出すように答えた。
「だって僕は悪魔に連れて来られた余所者だもん。これで二度目だよ。帰らなくても心配されないよ」
「幸太郎の父さんや母さんは……」
テオドールがそう言いかけた瞬間、周囲に落ちていた落ち葉や木の枝が、風のように舞い上がり、組み上がって発火した。この一瞬の出来事を目撃したテオドールは、腰を抜かして叫んだ。
「あ、悪魔?!」
それに答えたのは、あの子供のような、老人のような声だった。
「悪魔ではありませんよ、坊っちゃん。私はコーボルト、〝靴下ちゃん〟とお呼びください」
「コーボルト?!」
靴下ちゃんの名乗りを聞いた幸太郎は目を丸くしている。
「どうしてここにコーボルトが……?」
「おっと!」
早速周囲を見回す素振りを見せた幸太郎に、靴下ちゃんは待ったを掛けた。
「貴方には正面だけを見ていてもらいましょう! また姿を見られてはかないませんからね」
「はい……」
幸太郎が大人しく自分の言葉に従ったのを見て、コーボルトは先程の幸太郎の問いに答える。
「宿の旦那が私を愛してくれているように、私もあの宿が大好きなのです。だから騒ぎになっているのを聞いて駆けつけたのです。
貴方がたのご主人様は大した人格者だ。私は助けるのはお子様だけで充分だと申し上げましたが、おふたり両方を助けると言って譲りませんでした。おふたりの安否を気遣っておいででしたよ」
幸太郎はそれを聞いて、肩の力が抜けたようだった。ホッとした様子で溜息を着く。
「そうなんだ……良かった……」
ふたりの無事を確認して満足した様子で、靴下ちゃんは言った。
「では私はおふたりの無事と居場所を皆様に伝えて参ります」
靴下ちゃんの声が背後に遠ざかって行くのを感じ、幸太郎は後ろを振り返った。
「あっ、靴下ちゃん、待って――」
その時、確かに幸太郎は靴下ちゃんの姿を然と目撃した。脳天を割るように斧が突き刺さり、顔面蒼白で血塗れになっている子供が、こちらを目を丸くして振り返っている姿を。
その衝撃的な姿を幸太郎は脳内で反芻し、途端に気絶した。意識が途絶する刹那、テオドールが自分の名前を叫んだ気がしたが、確かめる術を幸太郎は持たなかった。
*
遠くからカズモリの声がする。必死な様子で激しく自分の名前を呼んでいる。
そう感じて瞼を開けると、幸太郎はカズモリが厳しい表情で自分の顔を屈んで見下ろしているのを見た。カズモリは口元を緩めてゆっくりと微笑む。
「良かった……目を覚まさなかったらどうしようかと思ったぞ」
その微笑みを見て、幸太郎は目を見開いた。
「その顔……!」
言われた途端に、カズモリは微笑みを引っ込めた。慌てて掌で顔を拭おうとする。
「私の顔に何か付いておったか?!」
幸太郎は朗らかに笑って起き上がりながら言う。
「いいえ、貴方は美しいですよ」
言われたカズモリは首を傾げて呟いた。
「何を訳の分からんことを……」
一行のベルリンへの旅は続く。