その日の広間は、幸太郎にはいつもより綺羅びやかに見えた。何しろずっと謁見や儀式でしか来たことが無かったのである。いつも堅苦しく緊張感が張り詰めていたので、気持ちの余裕が無かったせいかも知れない。
一八一〇年四月初旬、王宮にて午餐会が開催された。会場となった広間には、立食形式であったということで、複数のテーブルが持ち込まれ、その上に多種多様な料理が並んでいる。また来場者も多種多彩な人々が集まっていた。幸太郎がこの世界へ来る以前から宮廷に仕えているフンボルト、オストヴァルトやカズモリといった王妃に従う者たちや、近頃盛んに宮廷に出入りしている様子の、見知った顔の将校たち、また幸太郎の師匠たる御三家と呼ばれている魔術師の面々すら呼ばれているのだ。幸太郎も普段はこうした集まりに参加することを遠慮していたが、王妃の強い願いには逆らえなかった。この午餐会は、幸太郎が正式に王室の、ルイーゼ王妃の侍従のひとり、それも魔術師として出仕出来ることが決まったことへの歓迎の意味も含まれていたのである。
しかし、今日のルイーゼ王妃は、一際顔色が青白く見えた。王妃が登壇して演説を行うことによって、食事は始まるはずであった。登壇する王妃の表情には、いつか自ら告白した健康不安の色が濃く浮かんでいる。いつも付き添っている侍女のひとりが、慎重に彼女を支えて、登壇が進む。王妃自身もまた、慎重に呼吸しているように見えた。
王妃は壇の中心の手前まで支えられながらやって来ると、付き添いを断り、独りで真ん中まで進み出る。王妃は心配そうに眉を顰める侍女をよそに、いつも通りの、否、それ以上に堂々とした声を発した。
「皆、よく集まってくれた」
彼女は病魔を跳ね飛ばす勢いで、演説を始める。
「今、我がプロイセンはナポレオンの軛の元、苦しい舵取りを迫られている。そんな中、新しくファウストなる魔術師が、我が臣下に加わってくれた」
そう言いながら、王妃はぼんやりと自分を眺める幸太郎を指した。それに気づいて、幸太郎はふと我に返り、急に心臓が暴れ出すのを感じた。王妃は構わず続ける。
「また、この苦しい中でも相変わらず家臣として励んでくれているそなたらにも、わたくしは感謝している。今日の午餐会はその印だ。存分に楽しんで欲しい!」
王妃が杯を掲げるのを合図に、集まった者たちはそれに倣い、乾杯した。緊張が一気にほぐれ、各々談笑を始める。
フンボルトはふと、すぐ隣に立っている幸太郎を見た。幸太郎は先程紹介されたせいか、身体が固まっているようにも、そわそわしているようにも見える。視線が辺りを落ち着き無く見るように泳ぎ、手元は汗ばんでいるのを気にして、忙しなく開いては閉じてを繰り返していた。右手首に巻いた包帯も蒸れて気持ち悪く感じる。フンボルトは幸太郎に笑いかけた。
「どうした、コウタロウ? まさか緊張しているのか?」
幸太郎は、この友人が自分の緊張を少しでも解(ほぐ)そうと気を遣っているのだと気づいた。苦笑いを返しながら返答する。
「いや……まさか、本当に名前まで紹介されるとは思わなくて……」
「そうか。でもそのくらい王妃陛下から期待されているということだ。僕も王室に出仕する者の先達として、教えられることは教えるから、一緒に頑張ろうな!」
そう言ってフンボルトは幸太郎の肩を叩いた。幸太郎は先達にして友人であるフンボルトの励ましに、一生懸命笑って返した。
「あ、ありがとう、ヴィルヘルム……」
フンボルトは幸太郎の返事に満足して首肯した。
「それにしても、物凄い名前を貰ったなあ」
フンボルトは、自分の契約者にして幸太郎の師匠であるリッツが、幸太郎に〝ファウスト〟という名前を付けたのを意外に考えているようだった。
「〝ファウスト〟と言えば、ゲーテの書いた話の主人公だ。リッツも本を読む趣味があったんだな。お前は読んだことあるか? ゲーテの『ファウスト』……」
幸太郎はフンボルトの問いに首を傾げて見せた。
「タイトルは知っているけど、ちゃんと読んだことは無いかな――」
そう言って、彼の頭に、これは今まで散々悩みの種だった〝ファウスト〟の名前の意味を自然に知るチャンスなのではないか、というアイデアが閃いた。それも友人であるフンボルトの口から聞けるなら、これほど良いことは無い。幸太郎はフンボルトに訊ねた。
「どんな話なの?」
幸太郎の口車に乗せられて、フンボルトは嬉々として口を開きかけて、しかし突然冷静になり、真顔になってしまった。
「――いや、やめよう。お前の人生の楽しみを奪ってしまう」
幸太郎が唇を尖らせて、更に促そうとしたそこへ、ルイーゼ王妃がやって来た。傍にはカズモリと、先程王妃の登壇の際に彼女の身体を支えていた侍女が伴われている。話し込んでいたせいで王妃に頭を下げるのが遅れた二人の顔を見比べながら、王妃が話しかける。
「――すまない。話し中だっただろうか?」
「いえ、構いません、王妃陛下」
フンボルトが畏まって頭を下げながら返事をした。それを見てルイーゼ王妃が眉を下げる。
「ありがとう、フンボルト男爵。わたくしもコウタロウ――いや、ファウストと話がしたくてね」
「わたくしめと、ですか?」
フンボルトのそれを見て、彼に倣って頭を下げていた幸太郎が口を開く。恐る恐る顔を上げながら、幸太郎は訊ねた。
「何でしょう、陛下」
ルイーゼ王妃は微笑みながら幸太郎に言った。
「わたくしは貴殿に感謝しているのだ。わたくしの願いに応えて我がプロイセンの未来についての秘密を明かしてくれ、更に本当に魔術の道にも入ってくれもした。生きてきた国も時代すらも違うというのに……本当にありがとう、ファウスト」
そう言うと、彼女は幸太郎に向かって頭を下げて見せた。驚いて幸太郎は目を丸くしたが、それは王妃の傍に控えるカズモリと侍女にとっても同様らしかった。彼女たちも慌てて主の行動に倣う。幸太郎は畏れ多くも貴婦人たち三人に頭を下げさせていることに当惑した。
「お、畏れ多いことです、陛下。頭を上げてください。わたくしめは陛下のお覚悟とお子様たちを思う御心に感服したのです。それに、魔術の道への入門も悪いことではございませんでした。わたくしめは今でも自分のことを画家の端くれと信じてやみませんが、魔術の技を磨く時、芸術の技も共に磨かれたのです」
王妃は頭を上げつつ、頭を下げた時に目に付いたらしい包帯が巻かれた幸太郎の右手首を指す。
「右手を怪我してまで?」
「これは――」
幸太郎は王妃の指摘を受けて、両手を背後に回した。
「ただの腱鞘炎です。杖を持って振ったことは勿論ですが、デッサンも多くしたので……」
「畏れながら陛下」
幸太郎の右手首の話題になったことを受けて、フンボルトが王妃と幸太郎の会話に加わった。フンボルトは幸太郎の後見人であり、保護者であり、友人である立場から、彼の頑張りを王妃に伝えようと弁を振るった。
「彼の言っていることは本当です。彼は魔術の訓練から戻った後の我が家での時間は、食事以外はほぼデッサンの練習に充てていました。そうだろう? リッツ! シンケル!」
フンボルトに名前を呼ばれた二人は、ちょうど別のテーブルで会話をしているところであった。眉間に皺を寄せていたシンケルは、ここぞとばかりに会話を切り上げ、フンボルトの傍に近寄って来た。リッツもシンケルを追うようにやって来たが、シンケルとは逆に会話を中断させられて小さく舌打ちをしたところだった。
シンケルはにこやかにフンボルトに訊ねる。
「何の話です?」
「今、王妃陛下に幸太郎の努力の証をお見せしていたところさ」
フンボルトはわざわざ退きながら、シンケルとリッツに幸太郎の右手首を指して見せた。シンケルはすぐに合点が行った様子で「ああ」と首肯した。
「畏れながらルイーゼ王妃陛下、幸太郎の手首については私も証人になります。彼は週に一度はアカデミーに顔を出し、私や他の講師たちに、物凄い量のデッサンについて講評を乞うてましたからね」
シンケルはそうして王妃に幸太郎の右手首の腱鞘炎について説明したかと思えば、鋭い目つきで以ってリッツを睨んだ。
「貴方もその成果を見たでしょう? 魔法使いさん?」
リッツはシンケルに睨め付けられて小さく飛び上がった。顔を青くしながらルイーゼ王妃への説明に参加する。
「はい、シンケルの言う通りです、陛下。ファウストが魔術で実現したいことを予めデッサンとして描き始めてから、奴の能力は飛躍的に伸びました。これは恐るべきことで、だからこそ私は奴に一人前の魔術師としての認可を出しました」
「おお、そこまでなのか」
ルイーゼ王妃は彼らの説明に驚嘆したようだった。
「ならば少しでもその片鱗を見てみたいものだ」
その王妃の言葉に、幸太郎は引っ込めていた右手首を恐る恐る衆目環視の前に出した。動きを確かめるように、右手を開いては閉じを繰り返してみる。
「わたくしめは構いませんが……」
そう言って、幸太郎はリッツに視線を送った。幸太郎と目が合ったリッツは諦めたように小さく溜息を着く。
「陛下がお望みなら……」
幸太郎は背負っていた自分の杖を右手にしっかり持った。
「では皆さん、少し離れてください」
そう言って、一番近くにあったテーブルの上にあった燭台を左手に掲げる。燭台の上では三本の蝋燭に灯された火が煌々と燃えている。幸太郎はそれら三つの火を吹き消した。
それを見て、いよいよ何かが始まるのだと察した者たちは、幸太郎の言葉に従い、一歩ずつ下がった。またその様子を見知った他の午餐会の参加者たちが、彼らの周囲に集まって来る。
幸太郎は灯りを吹き消した燭台を再び元の位置に戻すと、杖を両手で縦に捧げ持つ様に構えた。集中するように下を向いて息を吐き、しばらく瞑目する。再び息を素早く呼吸し、幸太郎は燭台、ひいては灯りを吹き消した蝋燭に向き直った。
「――ベルリンの〝運命の輪〟の名に於いて、僕神喰幸太郎が命ずる」
幸太郎は、王妃の御前故にドイツ語ではなく、敢えて日本語で詠唱した。それも、以前ウーリが実演して見せた時の呪文を、そのまま自分向けに流用したものであった。
「――魔力よ、これらの蝋燭に仄かな明かりを灯せ!」
そう言って、幸太郎は杖を高く掲げた。
すると、火の吹き消えた燭台の上の三本の蝋燭に、それぞれ再び火が灯った。その火は先程までの火と違い、どことなく放っている光の色や明度に、優しげな雰囲気が感じられる。それを見た午餐会の参加者たちは、幸太郎の技に惜しげもなく拍手を送った。王妃も口を開こうとした。しかしそれよりも早くリッツが幸太郎を罵倒した。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ!!」
リッツは大股で幸太郎に近寄ると、激情のままに幸太郎へ言葉を叩き付ける。
「ファウストよ、この美しさの欠片もない詠唱は何だ? 王妃陛下の前だからと言って日本語で唱えたのか? 日本語がこんなに詠唱に向いていないとは、いやはや全く恐れ入ったぜ。もっと心地良く歌ってくれよ、もっと喜びに満ち溢れるように……」
リッツの罵倒を受けた幸太郎は、分かりやすく身体が縮み上がるのを感じた。思わずリッツから後退る。
何か反論出来れば良かったが、幸太郎にはそんな材料は無かった。王妃の御前で失敗しないように日本語を使ったのは本当だった。韻律など意識しないで何となく唱えたのも確かだった。ただ、この大勢の前でそれを大声で指摘しなくても良いじゃないか、という不満だけが残った。
「いや、リッツよ」と、今の様子を見て、今度こそルイーゼ王妃が口を開いた。
「貴殿が詠唱についてそう言うのならそうなのだろうが、しかしファウストは見事に三本の蝋燭に火を灯したではないか。最初の時点からここまで上達したのは確かに褒めるべきことだろう。詠唱については、リッツよ、そなたら魔術の先達が追って指導すれば良い」
諌められて、リッツは頬を膨らませながら、王妃に畏まって頭を下げる。
「ルイーゼ王妃陛下、貴方がそう言うのなら……」
ルイーゼ王妃はそれを確認すると、満足そうに微笑んでから、参加者たちに向かって呼びかけた。
「では皆の者、この魔術師ファウストに今一度拍手を送ろうではないか!」
王妃の呼びかけに、参加者たちが幸太郎に拍手を送る。そんな中、リッツは居心地悪そうに群衆に紛れて会場を去って行った。
ルイーゼ王妃は拍手が落ち着くと、改めて幸太郎に話しかけた。
「ファウストよ、よくここまで腕を上げたな。リッツも口は悪いが、良い指導をしているようだ」
王妃の傍に控えていた侍女も、彼女に続いて口を開く。
「わたくしも初めて御三家の方以外がお使いになる魔術らしい魔術を見ましたけれども、あのリッツさんのそれよりも美しい火だと思いますわ」
その侍女もまた、王妃と同じく淡い色の古代ギリシャ風のドレスを纏っていた。少し吊り上がった目の形が真面目な性格を、その目を細めて幸太郎を見詰めているところから教養深さを表しているように見える。
幸太郎は初めて会う人間に、自己紹介も無く話しかけられたので困惑した。作り笑いを一生懸命浮かべながら、同じく王妃の傍に控えていたカズモリに目配せして助けを求める。カズモリも幸太郎が困っているのに気づいたらしく、侍女に近づいて耳打ちした。
「――侍女長、未だ挨拶をしておりません」
「まあ!」
〝侍女長〟と呼ばれた彼女は、カズモリに耳打ちされて未だ挨拶が済んでいないことに気づいたらしい。それに驚いた彼女は口に手を当てる。
「そうでしたわ、失礼致しました、ファウストさん」
そう言うと、彼女は片脚を後ろに引きつつ、もう片脚の膝を少し曲げて幸太郎にお辞儀した。見事なカーテシーであった。
「わたくし、ブリュール伯爵令嬢のマリーと申します。王妃陛下の侍女長を務めさせていただいておりますの。王妃陛下に仕える者同士、以後よろしくお願い致します」
幸太郎もマリーのカーテシーを受けて、
「こちらこそよろしくお願いします、ブリュールさん」
と言いながら、彼女の手の甲に接吻をした。フンボルトに習った、西洋式の挨拶であった。マリーは幸太郎に「ブリュールさん」と名字で呼ばれたのを受けて、
「まあ、マリーと呼んでくださって結構ですのに……」
と笑った。
そうしていると、侍従たちがやって来るのが見えた。王妃を呼びにやって来たらしく、侍従たちは王妃に耳打ちした。ルイーゼ王妃がカズモリとマリーに言う。
「話の途中すまないが、わたくしは少し席を空ける。ふたりはファウストと話していなさい。皆これからわたくしの下で働いてもらうのだ。少しは互いを知っていたほうが良いだろう」
「ありがとうございます、王妃陛下」
マリーはそう王妃に向かって御礼申し上げると、自分の部下であろう侍従たちに言った。
「貴方がた、王妃陛下をよろしくお願いしますね」
その言葉を受けて、侍従たちはマリーに会釈して応えた。またルイーゼ王妃は幸太郎に向かって言う。
「ファウストよ、魔術師になってくれた貴殿への礼として、粥と地魚を用意した。我が家に嫁いで来た者に代々伝わる、客人への馳走なのだ。日本は海に囲まれていて魚をよく食すと聞く。ベルリンの川魚も是非気に入って貰えると嬉しい。では」
そうしてルイーゼ王妃は、残った者たちに微笑みを返して退席して行った。
ルイーゼ王妃を見送ると、マリーが話しを始めた。
「ところで、ファウストさんのお名前って、ゲーテ氏の戯曲のタイトルや主人公の名前にちなんで付けられたのかしら? ご存知? ゲーテ氏の『ファウスト』……」
「ああ、その話は先程私と彼でしましたよ」
そう答えたのはフンボルトだった。彼は幸太郎に代わって答える。
「彼はタイトルは知っているが、未だ読んだことはないそうです」
「まあ、そうなんですか?!」
マリーは未だこの世にゲーテの『ファウスト』を未読の者がいることに、驚きを隠せない様子だ。
「勿体無いですわ、ファウストさん! 未だ読んだことがないというのは、新鮮な読書体験が出来て羨ましい限りですが、『ファウスト』を始め、ゲーテ氏の作品は読者の人生に対してあらゆる示唆を齎(もたら)してくれます」
彼女が興奮しながら話すので、幸太郎は呆然としていた。きっと彼女は読書が大好きで、その中でもゲーテは特筆すべき存在なのだろうと察した。マリーは幸太郎の反応を意に介さない様子で、話し続ける。
「例えば『ヴェルター』はお読みになられたことはありますか? 『若きヴェルターの悩み』。わたくしと〝彼〟はすごく心を揺さぶられましたわ。わたくしたちのような教養ある市民と貴族身分を行き来するような者は、ヴェルターの葛藤にはエモーショナルな気持ちにさせられたのです。また『ヴィルヘルム・マイスター』では――」
「お話しの途中すみません、ご令嬢」
マリーの話しを遮って、フンボルトが口を開いた。彼は苦笑しながら言った。
「話しを遮ってしまい、申し訳ありません。ファウストが驚いて固まってしまっています……」
「あらあら、すみません」
フンボルトの言葉に、マリーはやっと幸太郎が呆然として口を開けっ放しにしていることに気づいた。
「わたくしったらつい喋り過ぎてしまいました。文学サロンに参加しているのもあって、文学について誰かとお話しするのがとても好きなんです。もしよろしければ、ファウストさんもお仲間に入りませんか? 魔術師の方が入ってくださるなんて滅多に無いから、皆さん喜ばれると思うわ」
「興味はあるのですが――」
と言って、幸太郎は逡巡した。〝サロン〟というものは良くわからないが、とりあえずサークルのようなものだろう。交友関係を広げるチャンスなのかも知れない。しかし、絵画にしか構って来なかったがために文学についての教養が殆ど無い自分が、そうした集まりに加わって良いのか分からなかった。
「僕は絵画ばかりやって来たので、趣味や余暇で小説を読んで来なかったのです。参加して大丈夫でしょうか?」
マリーは笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ。皆さん親切な方ばかりですし、皆さんの批評に耳を傾けているだけでも楽しいと思いますわ。それに、物語のいち場面を絵画の題材として表現されるのも、とても素敵ではないでしょうか?」
「確かにそうですね……」
マリーと幸太郎がそうして話しをしている一方で、カズモリはふと遠方のテーブルにいる人々の様子を見た。紺青の軍服を身に着けた将校たちの集団が、鋭い眼光を目に宿して会場を去ろうとするのが目に入ったのだ。カズモリはポケットに入っていた懐中時計を確認すると、マリーに耳打ちする。
「マリー侍女長、時間が来ましたので、私はこれにて――」
耳打ちされて、マリーもカズモリが見ていた方向を素早く振り返った。将校たちが会場を後にする後ろ姿を見て、「あら、もうこんな時間ですのね」と言う。
「でしたら、わたくしも御一緒に失礼致しますわ」
「おや、もうそんな時間ですか?」
と続いて言ったのは幸太郎の横に立っていたフンボルトだ。彼の言葉に、マリーが訊ねる。
「フンボルト男爵も一緒にお出でになりますか?」
「そうですね、私も行きます」
皆一緒に退席するということになって、やっとカズモリが幸太郎に向かって言った。
「コウタロウ――否、ファウストよ。まさか異邦人である貴方がここまでの身分になるとは、当初ローマで出会った時は思いもよらなかったが、そんなことはどうでも良い。共にルイーゼ王妃の元で働けること、誇りに思う。協力して、王妃陛下をお支えしていこう」
感慨深げなカズモリの発言を受けて、マリーも続いて言う。
「ええ、一緒に頑張りましょうね。ではファウストさん、サロンに参加される時は是非お声掛けくださいね。お待ちしていますわ。では、ごきげんよう」
そう言うと、王妃の臣下たちは揃って会場を退席した。
「では僕も退席するが、王妃陛下が仰った通り、お前のための午餐会だ。ゆっくり楽しんで来ると良い。陛下のおすすめになっていた粥と地魚だが、僕からも特におすすめするよ。陛下の粥と地魚は、食事会で出されるたびに頂いているが、シンプルな具材だがとても美味しいんだ。病みつきになること間違いないぜ。じゃあ、また後で」
フンボルトもまた、そう言うと将校たちや王妃の臣下たちの後を追った。
幸太郎は三人を見送ると、粥と地魚のことを思った。イタリアに赴任した経験もあって舌の肥えているだろうフンボルトが「病みつきになる」と言うのだから、王妃の粥と地魚は相当美味なのだろう。幸太郎は早速、粥と地魚を用意しているテーブルを目指した。王宮の調理師たちに粥と地魚を用意して貰うと、適当な位置に着いた。
ルイーゼ王妃の粥は、日本で食べるような米の白粥では無かった。調理師たちに材料を訊くと、豆と粗挽きにした蕎麦の実であると言う。口にすると、思ったより食べ応えがあるように感じられた。きっと、全粥よりも水分量が少なめなのだろう。味付けもコンソメでしてあり、白粥のそれより濃いかも知れないが、この午餐会で出ている他の料理よりもシンプルであった。しかし、それがまた濃い味付けの料理に飽きた幸太郎の食欲を刺激した。
幸太郎はルイーゼ王妃の粥を、勢いよく掻き込んで平らげた。勿論、地魚の存在を忘れてはいなかった。彼は小麦粉をまぶしてソテーにされたそれを、大口を開けて食べる。しかし最初に用意された分では物足りず、すぐにまたおかわりを貰いに席を立った。
自分でも驚く程の勢いで食べていた。これほどシンプルな具と味付けで、特別なところなど――ルイーゼ王妃が特別に用意したところを除けば――無いと言って良いくらいなのに、不思議なくらい美味しいのだ。まるで、一週間以上まともに食事をしていなかった状態から明けた時のように、味覚が覚醒している感じがする。
そうして二杯目に突入し、料理を貪り食っていると、幸太郎の後ろからシンケルがやって来た。唖然とした様子でシンケルが言う。
「――そんなに品の無い食べ方をして……王妃陛下の粥はそんなに美味だったのか?」
幸太郎はシンケルの言葉で我に返った様子で、彼を二度見した。
「あっ、シンケルさん!」
口元を拭いながらシンケルのほうを振り向く。
「お目汚しをしてすみません。この粥、びっくりするほど美味しいんです。それでつい、沢山食べてしまいました」
「そうか、そんなに美味しかったのか」
そう言いながら、シンケルは疲れを感じている様子で肩や首を回す。
「私はやっとあの魔法使いさんから解放されたところだよ。彼は君という〝村〟の外の出身者を短期間でそれなりの魔術師に出来たことで自信を得たようだ」
「何かされたんですか?」
幸太郎は、絵画の師と仰いでいるシンケルが、一応は自分の魔術の師であるリッツに不快な思いをさせられていないか心配した。シンケルは苦笑し、肩を竦めながら答える。
「熱烈な勧誘を受けたのさ。『魔術に大切なのは想像力だ。絵画をよくし、建築や街造りで遺憾無く実力を発揮している貴方なら、凄腕の魔術師にすぐにでもなれる! 貴方の弟子でもあるファウストのように、魔術の世界に足を踏み入れてみないか?!』とね」
幸太郎は顔をサッと青くした。リッツが自分の家系を守るために、自分に憑いている悪魔を求めることを始め、勢力を拡大したいのは、ずっと変わらないのだ。自分が本格的に魔術の世界に足を踏み入れたことで、周囲の関係の無い人々に迷惑が及んでいることを、幸太郎は申し訳無く思った。彼はすかさず頭を下げる。
「それは、申し訳ありません。リッツさんには無闇に勧誘を行わないようにお願いしておきます」
「君はすぐ謝るね?」
シンケルは頭を下げている幸太郎を、不思議そうに見詰めた。
「彼の勧誘は私もすぐ丁重にお断りしたから大丈夫だ。この前もフンボルト男爵からの紹介で仕事を受けてね、最初は芸術部門の長の席を、次にベルリンの上級建設委員会の枢密上級建設査定官の職を頂いたんだよ。他にも建築の仕事が沢山あって大忙しだから、そんな〝副業〟はやってられないんだ」
幸太郎は頭を上げながら、近頃デッサンの講評の時にシンケルと会えないことが多かったことや、今回の午餐会にシンケルが顔を出していることの理由を察した。シンケルもまた、臣下のひとりとして、ベルリンの都市改造に参加していたのだ。
「だからこそ、あの魔法使いさんに〝生ける屍〟をどうにか排除出来ないか訊ねたんだ。そうしたら、けんもほろろに『出来ない』の一言で却下されて、お別れさ。あの〝生ける屍〟は魔法使いでも一筋縄では行かない問題があるらしいね」
幸太郎は、ローマから旅立つ時にフンボルトから聞かされたこと――〝生ける屍〟の出現によって、解体され始めた市壁が再び復活し、都市空間が中世にまで逆戻りした――を思い出す。フンボルトすら相当口惜しがっているのだから、シンケルにとっては目の上のたんこぶどころではないだろう。
幸太郎はシンケルに言った。
「機会があったら、リッツさんに〝生ける屍〟についての見解を訊いてみます」
「そうしてくれるとありがたい」
シンケルが首肯し、幸太郎の肩を叩いた。
「近代的な都市空間の構築のためには、奴らの存在が喫緊の課題だからね。頼んだよ、魔術師ファウストくん」
*
午餐会の終了を見届け、幸太郎は自分の腹を軽く叩いた。シンケルとの会話の後も、気が済むまで粥や地魚を始めとする料理の数々を堪能した。
貴族であるフンボルトの屋敷に居候しているとは言え、普段から贅沢出来るわけではない。ナポレオンが大陸封鎖を行っている昨今では尚更だ。コーヒーすらチコリの根で代用されていた。
極端に口に合わないものをずっと食べて暮らしているわけでは無かったが、それでも今回の午餐会で提供された料理は素晴らしかった。幸太郎は幸せに満たされながら、会場を後にして、王宮の回廊を歩いていた。
「貴殿らは再びイェナの時のように敗北したいと願っているのか?!」
怒号に耳を貫かれたのは突然のことであった。
幸太郎は思わず身体を縮み上がらせて立ち止まった。見ると、自分のすぐ横に扉がある。今の怒号はこの扉の中から聞こえたらしい。
扉を凝視していると、扉の向こうからこちら側に向かって、誰かがズンズンやって来る足音がした。それを追い掛けて来る足音も聞こえる。そうこうしている間に、扉が勢いよく開いた。
中から現れたのは、プロイセン軍の制服たる紺青のそれを身に纏った将校であった。幸太郎はずっと呆然として突っ立っていたが、一瞬だけ将校と目が合った気がした。それもただ目が合ったというより、威嚇されたように感じたので、幸太郎は後ろに飛び退いた。そんな幸太郎に構わず、将校は幸太郎に背を向けて去って行く。その背中を追って、扉の中から何とフンボルトとオストヴァルトが現れた。二人は去って行く将校の背中を見詰めて、揃って長息する。
二人は将校を追うのを諦めたらしい。一緒に踵を返そうとしたその時、フンボルトと自分の背後にずっと立っていた幸太郎の目が合った。
最初に切り出したのはフンボルトだ。
「――コウタロウ、こんなところで何をしているんだ?」
すかさず幸太郎も訊き返す。
「ヴィルヘルムたちこそ、ここで何をしているの?」
「我々は、今ここで会議をしていたところなのです」
オストヴァルトがフンボルトの代わりにそう答えると、彼は何か思いついた様子でフンボルトに向かって言った。
「どうでしょう、フンボルト男爵。良い機会ですし、ファウスト様に我々の仲間や活動を知って頂くというのは?」
オストヴァルトの提案に、フンボルトは満面の笑みで首肯した。
「それはいい考えだ!」
間髪容れずにフンボルトが幸太郎に向き直る。
「コウタロウ、もし良ければ寄って行かないか? お前がこれから本格的に王家に仕えるに当たって、関係する機会が増える方もいるはずだ。僕から紹介しよう」
フンボルトは、今までろくに説明して来なかった自分の仕事を紹介し、更に王家に出仕する先輩としての役割を果たすことが出来る、一石二鳥の機会が巡って来たと見えて、興奮しているようだった。しかし、これは幸太郎にとっても貴重な機会に変わりはない。王室や現在のプロイセンの状況について、右も左も分からない自覚があるが故に、先輩である以上に友人であるフンボルトやオストヴァルトに紹介して貰える機会が早速やって来たのだ。幸太郎は喜んで答えた。
「紹介して貰えるの? 嬉しいな。是非お願いするよ」
三人は早速連れ立って会議場に足を踏み入れた。
その瞬間、幸太郎の眼の前に紺青の夜空が広がったように見えた。会議の参加者の殆どが、紺青の軍服を着用した軍人たちだったのである。
見渡すと、参加者たちは三つのグループに固まっているように見えた。白髪の老人を中心とした、軍服を着用していない――多分、フンボルトと同じような生粋の官僚なのだろう――者たちのグループ。白いギリシャ風ドレスを纏った貴婦人を、三人の軍人たちが慰めているように見受けられるグループ。そして、それらを傍観している様子の二人の軍人の組だ。
フンボルトは会議場に足を踏み入れるや否や、白髪の老人の元に速足で駆けて行った。老人に耳打ちしている様子から、自分の訪問を告げに言ったのだと、幸太郎は察する。
そんな中、よくよく見るとギリシャ風ドレスを着用した貴婦人が、先程の午餐会で見知ったマリー・フォン・ブリュールで、それを慰めている軍人のひとりがカズモリであることが分かった。幸太郎は、知らない人々の多く居る場所に入ったことで感じた緊張の糸が、見知った顔がいると分かったことで少し解(ほぐ)れるのを感じた。
そうしていると、オストヴァルトが幸太郎の前に進み出て、会議場中に聞こえる声で呼び掛けた。
「休憩中のところ、すみません! 宮廷魔術師のファウスト様がお見えになりました!」
その声に、会議場に居た皆がオストヴァルトとその背後の幸太郎に注目した。一気に注目の的となった幸太郎は、急に緊張して顔が紅潮するのを感じた。胸が高鳴るのを感じ、掌に汗が滲む。彼は緊張を誤魔化すように声を張って挨拶した。
「皆さん初めまして、ファウストと申します! 宜しくお願いします!」
「あら、ファウストさんじゃありませんか!」
そう言いながら駆け寄って来たのはマリーであった。
「貴方も我らが改革派の仲間でしたの?」
「いえ、僕は今そこでフンボルト男爵と鉢合わせて、これから宮廷に本格的に仕えるに当たって関係する方々を紹介してくれると言われて、この会議に誘われただけです」
幸太郎がそう答えていると、マリーの背後から若い軍人が急ぎ駆けつけた。
この軍人は、今まで見たヨーロッパの人々の中でも特に整った顔をしていると幸太郎は思った。鳶の羽の様な美しい茶色い頭髪がくるくると跳ねている上、全体的に線が細い印象を受ける。幸太郎は、この軍人は自分より歳下なのではないかと思った。
その軍人はマリーの前に進み出ると、彼女を幸太郎から引き離して守る様に、二人の間に立ち塞がる。怪訝そうに眉間に皺を寄せて、彼は言った。
「――マリー、この人は誰なの?」
「あら、嫌だわ、カール」
マリーは軍人に親しげに「カール」と呼び掛けつつ、しかし窘(たしな)めるように答える。
「先程の午餐会で王妃陛下が紹介されていた、新しい宮廷魔術師の方よ」
また一方で、白髪の老人の元から幸太郎のところへ戻ろうとしていたフンボルトを、中年の軍人が捕まえた。
先程マリーに「カール」と呼ばれた若い軍人とは打って変わり、この中年の軍人からは、どっしりとした筋肉を感じる強そうな印象を受ける。フンボルトをしっかり見据える表情や、彼の目が宿す湖水の水面のように蒼い眼光から、誰もが揺るがぬ意思の強さを感じることが出来るだろう。
この中年の軍人もまた訝しげな表情で、声を潜めつつ、フンボルトに詰め寄った。
「フンボルト男爵、何故ローゼンクランツの一派の者を呼び込んだのだ?!」
「グナイゼナウ伯爵」とフンボルトは毅然と軍人の名前を呼んだ。
「僕は彼のことを個人的に信頼しています。それに仲間は――例え魔術師であろうとも――身分を問わず多いほうが良いと考えます」
「しかし男爵」と、そこへまた、今まで他のメンバーを傍観していた軍人のひとりが割って入る。
その軍人も会議に集まった者たちの中では若い印象を受けた。身体の各パーツがシュッとして整って見える。しかしその中でも長いモミアゲが特徴的であった。
この若い軍人もまた、フンボルトの意見に苦言を呈した。
「個人的な信頼関係から――廷臣とは言え――異邦の者を会議に引き入れるのはどうかと考えます。この会議はプロイセンの政治・軍事の改革のためのもの。道徳法則的に少しでもプロイセンのためを思って行動する意思がある者でないなら、軽々しく誘うべきではないのでは?」
「それは君の言う通りかも知れないが――」
「しかしボイエンさん」
若い軍人――ボイエンと呼ばれた――の言葉に口籠ってしまったフンボルトを見かねて、オストヴァルトが彼の前に踏み出した。
「ファウストさんは王妃陛下の願いとは言え、それを受けて魔術師におなりになられたのです。ただの異邦人がそこまでするとは、私には思えません」
オストヴァルトの言葉にボイエンの表情が曇る。
「貴殿がそう言うのならばファウスト氏には一片でもプロイセンを思って行動する意思があるとは思うが、しかし私にはたまたま近くを通り掛かった者を気軽に会議に誘おうとする諸君らの軽薄な行動は承服しかねる」
その時、混沌として来た場の空気を鎮めるように、手を打ち鳴らす音が会議場に響き渡った。音の方向を見ると、先程まで椅子に腰を下ろしてこの場を傍観していた老軍人が、今ゆっくりと立ち上がるところだった。
「まあまあ、皆落ち着こうじゃないか(おちついてくんなせや)」
その場で言い争っていた皆が、老軍人が口を開いたのを聞いて、揃って声の主のほうに注目する。幸太郎もまた、彼の言葉を聞いて、彼を見詰めた。その軍人の口から出た言葉が、自分の故郷で、あまり好ましく思っていない父親の口から聞いた方言そのものだったのである。
その軍人は、一見してこの会議場にいる誰よりも見窄らしく思われた。髪型はまるで酷い寝癖だらけであるかのように乱れているし、背中も痛くならないか気になる程の猫背なのだ。姿勢が悪すぎて、腹部が悪目立ちしている。一方で、目元の隈からは、今までの人生で苦労を重ねてきたことを推察させられた。それに穏やかかつ緊張した空気感を纏っている様子から、幸太郎は昔に大学で見かけた哲学の教授のような印象を受けた。まさに学者が間違えて軍服を着ているような人物であった。
学者のような軍人は話を続ける。
「僕は彼について、『王妃の御前にてプロイセンの〝未来〟を漠然と予言した』と伝え聞いている。では〝現在〟についてはどうだろうか? 僕が思うに、殆ど何も知らないのではないか?」
学者のような軍人は、この会議場にいる者の中で唯一予言の場に居合わせた、オストヴァルトに目を向けた。それを受けてオストヴァルトが答える。
「私はその場に居合わせましたが、確かにファウスト様は〝現在〟の状況についてのお話はされませんでした」
それを聞いた一同は、一斉に幸太郎に疑いの目で見た。目の前に居る若い異邦人の魔術師が、現在のプロイセンの状況をろくに知りもせず、無責任同様に王妃に予言を授けたのではないかと思っているのである。
幸太郎もまた、二人の言葉によって事の重大さに気付いていた。今まで自分が見も知らぬこの世界で生き延びるために、何も考えず、周囲に流されるままにやってきたことによって、恥ずべき結果を、今、招いてしまっていたのだ。
彼は首筋に冷や汗を感じながら、おずおずと告白する。
「……恥ずかしながら、〝現在〟のプロイセンの状況については、本当に何も知りません……」
グナイゼナウは幸太郎の言葉に激昂した。
「〝プロイセンのために働く〟以前の問題ではないか! 現在の状況を知らずによくも抜け抜けとそんなことが言えたものだ」
グナイゼナウの怒りはフンボルトにも飛び火した。
「フンボルト男爵はどうしてこんな〝ヨナ〟のような者を会議場に引き入れたのだ?!」
だがフンボルトは怒りを向けられても毅然として答える。
「私は彼のことを〝善いサマリア人〟だと思っています。そのように貶めるようなことを言わないで頂きたい!」
その言葉を受けても、グナイゼナウは更なる怒りをぶつけようと口を開いた。何か声が発せられるその時、学者のような軍人がグナイゼナウの方に腕を伸ばして制止した。
「落ち着きなさい、グナイゼナウ」
それを聞いて、グナイゼナウは不満気に言葉を飲み込んだ。それを確認すると、学者のような軍人は口に笑みを浮かべて幸太郎に向かって言った。
「ならば、これからでも〝現在〟の状況を学んで頂こうではないか。我らと共に働くにしろ、敵対するにしろ、判断材料が無くてはどうにも出来ないのだからね。それで良いかな、王妃の魔術師ファウスト殿?」
幸太郎は学者のような軍人に笑みを向けられて胸を撫で下ろした。やり直す機会を与えられたと見て、幸太郎は頭を下げる。
「はい。わざわざ学ぶ機会を用意して頂き、恐縮です。よろしくお願いします! えっと――」
幸太郎は相手の名前を口にしようとして、やっとこの学者のような軍人の名前を知らない事実に気付いた。軍人もまた、自己紹介していないことに気付いた。
「ゲルハルト・フォン・シャルンホルストだ。陸軍省の代表として改革事業に参加している」
「改革事業……?」
と幸太郎は呟いた。それを聞いて、シャルンホルストは先程「カール」と呼ばれた若い将校の方を向いた。
「ではクラウゼヴィッツ、ファウスト殿にプロイセンの改革事業について御説明しなさい」
若い将校――カール・フォン・クラウゼヴィッツ――はいきなりシャルンホルストに呼ばれて目を丸くした。しかしそれ以上驚きを露わにすることはせず、すぐ納得した様子で「はッ……」と返事をする。
クラウゼヴィッツは幸太郎に向き直る。
「ではぼくから説明をしますが――フンボルト男爵やオストヴァルト氏からどのように誘われたのかは分かりかねますが、この会議場ではプロイセン国家の行政改革について話し合っていました」
「行政改革……!」
幸太郎はクラウゼヴィッツの言葉を復唱する。
「今まで見聞きしてきた情勢から鑑みると、やはりナポレオンのフランスに対抗するためのものなのですか?」
「当たらずとも遠からず、と言ったところですね」
クラウゼヴィッツが幸太郎の問いに答えて言う。
「少なくとも改革自体はナポレオンに敗北する以前から行われていました。ティルジットの講和が改革を加速させる要因になったので、ナポレオンに対抗するためにものと言っても過言ではありませんね。ティルジットの講和を受けてプロイセン国家の存続が危うくなったことを受け、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世によって、シュタイン男爵を中心に行政改革が進められることになりました」
「ああ、その人の名前なら知っています!」
幸太郎は高校までの世界史の時間で小耳に挟んだ人名が登場したので、表情を明るくした。ずっと同じ位置に座って幸太郎と彼を取り囲む集団を見守っている、白髪の老人を指して訊ねる。
「あの人がシュタインさんですか?」
「こらッ」
すると、フンボルトが焦って慌てた様子ですっ飛んで来た。老人を指す幸太郎の腕を両手で鷲掴みにして引っ込ませる。
「失礼だろうコウタロウ! あそこに居るのはハルデンベルク侯爵だぞ、シュタイン男爵じゃない」
「ごっ、ごめん……」
幸太郎もまた、フンボルトがこんなに取り乱すのを初めて見たので、驚き、素直に謝罪する。
そうした二人の様子を見て、ボイエンが呟く。
「――シュタイン男爵のお名前は知っているのだな」
幸太郎はボイエンの言葉に答えるように言った。
「ハルデンベルクさんのお名前も存じ上げています。僕の時代の歴史の教科書には――僕の記憶が正しければ――この行政改革はシュタインさんとハルデンベルクさんのお二人の名前で紹介されていたと思います」
幸太郎の言葉に、会議場にいる面々がざわついた。必ずしも明るくない表情で、隣同士の人物と顔を見合わせる。ハルデンベルク本人だと紹介された老人すら、笑みを浮かべることはしなかった。
シャルンホルストが再び掌を打ち鳴らした。
「――話の筋が逸れたね。クラウゼヴィッツ、説明を続けなさい」
「はい、将軍」
シャルンホルストが取り成してくれたことに安心した様子で、クラウゼヴィッツが返事をした。
「今話に出たシュタイン男爵は、ある事情によりナポレオンに睨まれたため、現在ここにはいらっしゃいませんが、改革自体はハルデンベルク侯爵に引き継がれて現在に至っています。行政改革の内容は農業や教育など、多岐に渡っていますが――」
「教育分野の改革を担当していたのが僕だ、コウタロウ」
クラウゼヴィッツの説明に割って入ったフンボルトの言葉を聞いて、幸太郎の脳裏に数年前の記憶が蘇った。
「そう言えば、ローマからベルリンに引っ越す時に『改革事業に参加する』って言ってた気がするけど、これがそうなの?!」
「それ程前の会話を覚えていてくれて嬉しいよ」
フンボルトがにこやかに笑う。
「幼い頃に我が家で家庭教師をしてくれていたクントも改革に参加していてね、その推薦を受けて僕も加わったんだ」
そう言って、彼は自分の後ろにそっと控えていた、矍鑠たる老人を指す。
「教育とは慣れない分野で困ったものだったが、頑張った甲斐あって、この度ベルリンに大学を開学することが出来ることになったんだ!」
フンボルトは感極まっている様子で、握り拳を振りながら話した。矍鑠たる老人――クントもまた、教え子たるフンボルトが大袈裟に感情を昂らせている様子を見て、満更でもない様子で口角を釣り上げる。
「フンボルト男爵ならば、何か爪痕を残して頂けるだろうと見込んで、ベルリンにお戻り願ったのだ。予想通り、素晴らしい働きを披露して頂いたが――まさか、教育長官に任命されて、およそ一年で大学を設立してしまうとは……」
「ええ……っ」
幸太郎はフンボルトが大学開設を一年で成し遂げたと聞かされ、その業績の大きさに、文字通り開いた口が塞がらなかった。驚き、呆然として、嬉しい気持ちに共感するどころではなかった。
そうしていると、誰かが咳払いするのが聞こえた。見ると、クラウゼヴィッツが眉間に皺を寄せてこちらを見ている。「また話が逸れました」と彼は言った。
「フンボルト男爵、自慢話はまた別の機会にしてください」
言い捨てると、クラウゼヴィッツは一回深呼吸を挟んでから、説明を再開する。
「先程も申し上げた通り、今回の行政改革の内容はフンボルト男爵が中心となって行った教育分野の他、シェーン氏やシュレッター氏が担当されている農業分野など、多岐に渡りますが、今回の会合では特に軍事の分野を中心に扱っています。最初にも言いましたが、軍事改革も他の分野と同様に以前から進めていました。更にナポレオンによる侵攻を受け、それに敗北したことによって、この分野は特に重要なものとなりました」
クラウゼヴィッツは一際力を込めて、誇示するように言った。
「そして、その軍事改革を進めているのが、シャルンホルスト将軍を中心とする、我ら陸軍省なのです」
「説明ありがとう、クラウゼヴィッツ」
シャルンホルストが笑みを浮かべながら、一連の説明を終えたクラウゼヴィッツに向かって拍手を送る。
「君は説明をするのが上手いからね、士官学校の教官としてもやっていけるだろう」
「ありがとうございます、シャルンホルスト将軍」
そう返礼するクラウゼヴィッツは、少し拗ねた様子で頬を膨らませていた。
「しかしぼくは軍人である以上、教壇よりも戦場に立つことを望んでいます」
「分かっている」
シャルンホルストは誤魔化すように、何度も首肯して返す。
「分かっているとも」
そうしてシャルンホルストは幸太郎の方に向き直った。腕を組み、俯いて考え事をしている様子の幸太郎に向かって、彼は訊ねる。
「それで、王妃の魔術師であるところのファウスト殿は、今の説明を聞いて思うところはありましたか?」
幸太郎は頭を上げ、腕組みを解いて、シャルンホルストの言葉に答えた。
「以前、僕に魔術を指導して下さったウーリさんという方が仰っていた『軍事改革』というのがどういうものか、少し分かった気がしました」
「ウーリ少佐――」
シャルンホルストは顎に手を添えて、記憶を手繰り寄せているようだった。
「彼は戦場で魔術を専門的に扱える隊を設置したがっていたのだったか……」
幸太郎はシャルンホルストの言葉に首肯する。
「はい、そのウーリさんです。彼は確かそんなことを言っていました」
シャルンホルストは眉を顰めて長息した。
「部隊の設置や人員の確保については、彼に一任している。だが、〝魔術を〟専門に扱う部隊の設置など、本当に成し遂げられるかについては、我々は疑問視している」
頭を抱えるシャルンホルストの様子を見て、幸太郎はシャルンホルストの顔を覗き込みながら訊ねる。
「何か不安要素でもあるのですか?」
シャルンホルストは幸太郎に向き直った。
「そもそも、部隊の設置や配備は大変なものだ。先のナポレオンとの戦いで干戈を交えた後、急ぎ柔軟な動きが出来る狙撃兵部隊を配備したが、それにも我々は大層骨を折った。少佐がどの程度の規模の部隊を設置する気かは分からないが――例えばそうだね」
言いながら、シャルンホルストは幸太郎のすぐ眼の前までやって来た。
「ウーリ少佐は〝少佐〟なので、中隊から大隊程度の規模を想定してみよう。どの程度の規模を動員することになるか、ファウスト殿はお分かりになるだろうか?」
そう幸太郎に問う姿は、やはり大学の教授や指導教員を彷彿とさせる。
しかし幸太郎は、その解答をすることに窮した。彼は表情を曇らせて、「――分かりません」と素直に答える。
「僕が居た時代の僕の国では、民間人が軍事的な物事に触れる機会はまず無いので」
シャルンホルストは幸太郎の前にあった椅子に腰を落ち着けた。またもや酷い猫背を披露しながら、シャルンホルストは幸太郎の発言に対して首を傾げる。
「――我々はこの度、国民から遍く徴兵を行う制度を作り、それを施行しようというところまで来ているが、そうした制度は無い、と見える。けれども君の口振りからは、軍事的な組織が存在しないということでは無さそうだ。ということは、戦力を供出するような、特権階級が存在するということだろうか?」
「いえ、そういうことではありません」
そう言って、幸太郎は首を横に振る。
「そうした特権階級は表面的には無いことになっています。軍事的な組織の保持には国民から徴収した税金によって行われていますし、組織には希望者のみが参加することになっています」
「希望者のみが参加するのか。まあ、そうした意欲を持った者のみが参加するほうが、戦力としては役立つのかも知れないね」
シャルンホルストは幸太郎の言葉に、こくこくと首肯する。そうするとシャルンホルストはまた幸太郎に問うた。
「では国家の上層部はそうした希望者を募るためにどのような施策を行っているのかね? 君の口振りから察するに、軍事的な事柄を学ぶ機会は無かったと思うが……」
「お察しの通り、軍事的なことを学ぶ機会はありませんでした」
そう言って、幸太郎はシャルンホルストから気不味そうに視線を逸らした。
「そんなことを知っているのは、軍事的な組織やそれに関連する大学で学んだ者や、俗にオタクと呼ばれる好事家くらいです。希望者も、単に職業選択の一環として軍事的組織へ就職しているに過ぎないと思っています。僕の友人にも就職活動の最終手段として選んでいる人がいましたし……」
シャルンホルストは傾げていた首を反対側に倒した。そうして幸太郎と視線を合わせようとすると、幸太郎は顔ごと逆の方に逃げる。シャルンホルストは幸太郎の気不味さを察した様子で呟いた。
「――軍事的な事柄を『そんなこと』と言う辺り、君や君のいた時代では、それは忌避される対象であるらしいね」
シャルンホルストは一旦身体を浮かして姿勢を正して――相変わらず猫背のままだったが――言った。
「まあ、それに対する是非はこの際どうでもいい」
「先程訊ねた中隊から大隊程度の規模は、中隊で六〇名から二五〇名、大隊では三〇〇名から一,〇〇〇名になる。人数に幅があるが、今回は六〇名程度で考えてみよう」
そう言って、シャルンホルストはやはり大学の指導教員のように講義を始めた。
「魔法使いや魔術師は、この国では独自の集落を作って生活をしていると聞く。仮にウーリ少佐が『魔法使いの村』の者だけで隊を編成しようと募集をかけるとしよう」
シャルンホルストは自分の掌を幸太郎に見せつけるように、前に大きく突き出した。
「『魔法使いの村』は〝村〟として運営されつつも、そこそこ栄えている街程度の規模があると考えられるので、一家族当たり六人と考えて二〇軒の家があると仮定すると、人口にして一二〇人在住していることになる」
将軍は指折り数字を示しながら話し続ける。
「この国では人口全体のうち十四歳以下が占める割合が約三十五パーセント、六十歳以上が約五パーセントだ。また魔法使いとは言え、女性は一般的に戦力として換算出来ない。軍には参加出来ても後方にて支援して頂くことになるだろう。それらを村の人口から差し引くと、残りは三十六名だ。これではとても中隊として運営出来ない」
幸太郎は、ずっと方言で話し続けるシャルンホルストに、知性を見出して嬉しくなっていた。自分の周囲に居る人々の中に――特に方言で話す人物には――数字やデータを援用して説明する程の知性を持つ人物を見つけることは難しかった。逆に粗暴で、言いくるめようとすると拳や蹴りが飛んで来たことのほうが多かったので、理知的で素朴な将軍に感動すら覚えていた。
計算が終わったと見えて、シャルンホルストは手を引っ込める。その代わり、幸太郎を見据えて言った。
「ならば村の外の者を採用せざるを得ないが、これは困難を極めることが予想される。何故かはファウスト殿にも理解出来るだろう?」
シャルンホルストに問われて、幸太郎は息を呑んで答える。
「それは……いくつかの要因が考えられます。まず、一般の方々が魔術師や魔法使いに対する偏見を多かれ少なかれお持ちであることです。王族の方々が魔法使いと契約するのが常であっても、それは変わらないのだと感じています。また、運良く魔術に偏見が無い方に出逢えたとしても、扱えるかは別問題ですし、扱える方を採用出来たとしても、ひとによって扱える魔術や程度が違う可能性もあります。魔術師の家系に生まれたとしても、魔術を扱う技能に乏しいひとはいると聞きました。出来ることがまちまちでは、軍という集団の中で一斉に行動する時に不便が生じることも考えられます……よね?」
幸太郎は自信無さげに解答を終えたが、しかし次の瞬間、シャルンホルストは彼の解答を拍手で迎えた。
「その通りだ」
微笑んでそう言うと、シャルンホルストは補足するように言った。
「例えば兵器としての小銃の登場を考えて見給え。今ではすっかり戦争では定番の武器となった小銃だが、あれは慣れれば単独でも扱えるし、狙いをつければ敵を簡単に殺傷出来る。刀剣は個人の技量に伴うところが大きいが、小銃はそれが限りなく小さいのだ。今の時代において、魔術師が軍隊として活動出来るかは、小銃と同じか、それ以上の性能を以って行動出来るかにかかっているだろう。国家のために共に働こうとする気概は認めるけどね……」
そう締めくくると、シャルンホルストは肩を竦め、再び頭を抱えた。
するとグナイゼナウが、今が好機とばかりにシャルンホルストに詰め寄った。
「やはり現国王を退位させ、王弟を王位に就けるのが得策では?」
この言葉に、シャルンホルストは表情を更に曇らせた。グナイゼナウは構わず話し続ける。
「この国唯一の魔法使いが現在契約しているのは王妃です。王妃は今こそ我らと国王の仲を取り持って下さっていますが、皆も承知の通り、もう永くはないでしょう。そうなれば今度こそ魔法使いは国王と契約するでしょう。優柔不断な国王どころか、功利主義的な魔法使いまで我らは相手にせねばならなくなるのです! 魔法使いを取り替えることは難しいが、国王はそうでもない。また、自分の王朝と国家の維持しか考えていない国王と違い、王弟にはナポレオンと戦う意欲がある。今こそ現国王を退位させ、王弟を担ぎ上げて王位に就けるのです!」
気が短く、戦争に勝つためにクーデターも辞さない様子のグナイゼナウに対し、シャルンホルストは「グナイゼナウ大佐」と落ち着いて、しかしきっぱりと彼の名を呼んだ。
「何度も言っているはずだ、この改革事業はプロイセン追うフリードリヒ・ヴィルヘルム陛下の御決心、御聖断によって始めることが出来たのだと! 国王がナポレオンとの講和の後、オルテルスブルクにて発表された布告によって、我が軍の抜本的改革を行うことが認められたのだと!」
グナイゼナウは、穏やかだが強かさを感じられるシャルンホルストの反論を聞いて押し黙る。
「成る程、国王が最初から強い気持ちを持っていれば、自分が思い立った時にすぐにでも改革を開始出来たと言うのなら、それには反対しない。国王は国王という最高位の身分にありながら、メレンドルフ閣下やブラウンシュヴァイク公といった老将たちの意見を押し切ることが出来なかった。失敗した時に受ける恥は、何人にも耐え難いものだろう。だがそれは今はどうでも良い。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム陛下が御決心なされた今が好機なのだ。少なくとも陛下は軍事をはじめとする行政の抜本的な改革を望んでおられたのだから、我々が支えない手は無いじゃないか。そうだろう?」
シャルンホルストの切実な説得に、グナイゼナウは言い返す言葉を持たなかった。グナイゼナウは静かな心持ちで、後ろに下がった。
一方で、今の言い合いを聞いていた幸太郎は目を泳がせていた。会話の中に聞き捨てならない単語があったのである。
「シャルンホルスト将軍、王妃陛下が『永くない』というのは、どういうことでしょうか……?」
困惑気味の幸太郎の問いに、シャルンホルストはあくまで冷静に、表情ひとつ変えないで答える。
「そのままの意味だ」
この言葉を聞いても理解が追い付かない様子の幸太郎を見兼ねたのか、マリーが幸太郎の前に進み出た。彼女は瞳を潤ませながら、シャルンホルストの説明を引き継ぐ。
「ルイーゼ王妃陛下は、ご実家への旅を終えて以来、ご病気の具合が良くないのよ……」
*
七月、ついにその時は来た。
幸太郎はルイーゼ王妃に「大至急!」と召喚され、王妃の寝室の前に急いでやって来た。寝室の扉の前には侍従武官――カズモリだ――が立っている。カズモリに自分が到着したことを伝えようと近付こうとしたその時、寝室から出てきた涙目になっている侍女と正面衝突しそうになった。それ程切迫した状況だということを改めて感じながら、幸太郎はカズモリに話しかける。
「魔術師ファウストが参上しました」
緊張して、逆に注意が逸れていたのか、カズモリが幸太郎に気付くタイミングが一瞬遅れた。幸太郎が自分の顔を覗き込んでいるのが分かって、カズモリは彼の顔を二度見する。
「おお……」
だがカズモリは親しい顔を見て安心したのか、表情を少し綻ばせた。
「来たのか。少し待て――」
そう言うと、カズモリは寝室の中へ入って行った。扉を開け放したままだったので、幸太郎は扉の隙間から寝室の中をそっと覗いた。カズモリは、既に部屋の奥にあるベッドに横たわっている様子のルイーゼ王妃の元に居た。小さくカズモリが幸太郎の到着を王妃に伝えているのが聞こえる。ルイーゼ王妃は乱れた息を整えるように深呼吸すると、「通しなさい」と答えた。カズモリは頷くと、幸太郎の方へ戻ろうと踵を返す。それを見て、幸太郎は首を扉の隙間から引っ込めた。背筋を伸ばして畏まって、カズモリが戻るのを待つ。カズモリは扉の隙間から覗くようにして、幸太郎に話しかけた。
「許しが出た。入れ」
カズモリが扉を大きく開けたのを見て、幸太郎はいよいよ王妃の待つ寝室へ入った。
寝室の中では、多くの侍女たちが、侍女長たるマリーや侍医の指揮の元、王妃のベッドを取り囲むようにして、忙しなく動き回っていた。その中を幸太郎は、何度か侍女にぶつかりそうになりながら、ルイーゼ王妃の元に辿り着いた。
王妃の状態を見て、幸太郎は目を見開いて驚愕した。王妃の顔は今までで一番青ざめて、血の気が感じられなかった。それに反して発熱があるのか、滲んだ大粒の汗で彼女の額が光っている。とても荒い息遣いで呼吸しており、整えようとしても、時折肺の奥底から湧き上がって来る咳が、それを大いに妨害していた。
また、幸太郎の向こう側の王妃の枕元には、初めてお目にかかる王妃の夫――国王陛下――が付き添っていた。祈るように、両手で妻の手を握り締めている。だが、妻が苦しむ様子をまともに見れないのか、ずっと顔を伏せており、幸太郎にはその顔が見えない。ただ、王妃が激しく咳き込む度に、国王も苦悶の声を上げていた。
「ああ、ファウスト、来てくれたのか」
混乱のあまり目を泳がせている幸太郎をよそに、クッションや枕で身体を支えながら上体を起こしたルイーゼ王妃が、彼に向かって微笑みかける。
「このような時のために、貴殿を魔術師として用いているのだ……」
ルイーゼ王妃は夫の方を向くと、握られている手を握り返したり、揺すったりして、夫の気を引いた。
「貴方、ファウストが来てくれました。彼にも挨拶するので、一緒に聴いてくれませんか?」
「ああ、分かった」
妻の言葉に、国王はやっと顔を上げた。小さく口髭を生やしたその顔は、涙と洟水に塗れて、威厳の欠片も無く、ぐちゃぐちゃになっている。
王妃の『挨拶』という言葉に、幸太郎は慌てて王妃と視線を合わせるように膝立ちになった。困惑と緊張のあまりに震える声で言う。
「僕でお役に立てるなら、何でもお聴きします」
「貴殿、今……『何でも』と申したのか?」
ルイーゼ王妃は幸太郎の言葉を耳聡く聴きつけた。幸太郎は自分の発言に自分で驚いた様子で、慌てて付け加える。
「勿論、僕が出来る範囲のことに限られますが……」
正直、幸太郎は王妃がわざわざ確認の言葉を掛けて下さったことに安心していた。ルイーゼ王妃の病状の酷さに、病人の頼みは何でも聴こうという気持ちにはなっていたが、無理難題を吹っ掛けられても対応は出来かねた。
王妃もそれを見抜いていたのか、幸太郎が慌てふためいているのを見て笑みを零した。
「そんなに慌てずとも大丈夫だ。勿論頼みたいことはあるが、この期に及んで大層な願いは思いつかないのだ」
「では、王妃陛下の願いとは何でしょうか?」
幸太郎は改まってルイーゼ王妃に訊ねた。向かいで会話を見守っている国王が、唾をごくりと呑み込む音が聞こえる。ルイーゼ王妃は、山積みになった枕やクッションに身を預け、仰向けになり、真剣な面持ちで言った。
「私が貴殿に望むことは――『未来永劫輝くプロイセン王家を絵画に描くこと』である」
幸太郎はルイーゼ王妃の願いを聴いて、首を傾げた。王妃の願いは、今聴いた言葉だけでは未だに漠然としているように思われる。
〝未来永劫輝く〟というのはどういうことだろうか? 輝いているのは絵画だろうか? 王家そのものだろうか? 〝未来永劫〟ということは、過去――少なくとも現在――から末代までのプロイセン王家の全員を絵画に描くということだろうか?
「えっと……それは、どういう……」
困惑を口にする幸太郎を尻目に、ルイーゼ王妃は話し始めた。
「あの時、貴殿は確かにあれを食べたと聞いた。あの――豆と粗挽きの蕎麦の実で作った粥だ」
「あ、はい」
幸太郎は慌ててルイーゼ王妃に視線を合わせた。
「確かに、いつかの午餐会で頂きました。大変美味しかったです。またいつか頂けると嬉しいのですが……」
気が動転して、何故か重病の王族相手に食べ物を強請り出した幸太郎を無視して、ルイーゼ王妃は話し続ける。
「あの粥は、プロイセン王家に嫁いで来た妃たちに、代々伝わる呪いの粥なのだよ」
幸太郎は、ルイーゼ王妃の突然の告白に唖然とした。ルイーゼ王妃の術中にまんまと引っ掛かっていたのは、王妃の臣下としては、まだ納得出来た。しかし、民衆は未だに魔法や魔術の類を恐れているのに、王族の、しかも国母たる王妃が白昼堂々呪いを使ったという事実は、上手く飲み込めなかった。
「どうだ。呪いを使えるのは魔法使いや魔術師だけではないのだよ」
ルイーゼ王妃がいたずらっぽく笑って言う。
「そのような物を食べさせずとも、驚く程人の良い貴殿ならば、この先もずっとプロイセン王家に仕えてくれると信じているが――しかしこの願いは、どうしても、呪いに縋ってでも叶えたかったのだ……ッ」
言った途端に、王妃は激しく咳き込んだ。今までに無く激しい咳に、幸太郎は震えながらルイーゼ王妃に縋り付いて泣きじゃくった。
「王妃陛下、しっかりしてください! 王妃陛下が望むなら、絵画も何枚だってお描きします! この先もずっと、王家の皆様にお仕えします! だから死んではいけません! 嫌だ! 陛下!!」
王妃は最早、真っ青な顔で汗を流しながら、夫たる国王の方を向いて脱力していた。
国王は半ば混乱し、狼狽えながら、周囲の臣下たちに向かって激しく叫んだ。
「侍医を、ハルデンベルクを呼べ!!」
侍医や侍女など、様々な者たちが雪崩込んで来た。幸太郎はそれらに押し退けられる形になり、寝室の外へ押し流されて行く。
人々に押し流されて行く中で、彼は一瞬、王妃の方を見た。頭の上から足の先まで純白の衣装に身を包んだ、恐ろしい程美しい女性が、ルイーゼ王妃の傍らに立っている。――ベルタ様だ! 彼女は幸太郎と目が合ったと分かると、哀しげに微笑み、そのまま王妃の顔を覗くように屈み込んだ。幸太郎は口から制止の言葉を出そうとしたが、その瞬間に群衆から力が掛かって廊下に押し出された。
暫く廊下で呆然と立ち尽くしていると、寝室から大勢の涙に咽ぶ声が聞こえた。
一八一〇年七月十九日、プロイセン王妃ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツは崩御した。
*
日没後のウンター・デン・リンデンに、人気は殆ど無かった。歩哨の兵士や、治安維持のために警戒中の自警団の者たちが掲げる松明が、あちらこちらに点々と見えるだけで、歩いているのは虚ろな表情を浮かべている幸太郎くらいであった。しかし全く静かというわけではなく、時折街の外から野犬などの獣の遠吠えや、〝生ける屍〟の呻き、またそれらが城門や城壁に向かって危害を加えている音が小さく聞こえる。
先程まで、幸太郎は王妃の崩御による後処理や手続きに、侍従のひとりとして関わっていたのだった。王族の崩御ということで、手続きは山のように多く、幸太郎は宮廷画家としての顔も持っていたので、王妃のデスマスクを描くという役割も当てられた。やることが多く、集中力も求められた。王妃の姿をありのまま、しかし美しく遺すという仕事に、泣いている暇は無かったのだ。
一通りの仕事が終わって帰宅が許されたのは、何日か後の日没後であった。今日がいつかも判然としないが、現実を受け入れる心の余裕が生まれた。しかし、雇用主であり、尊敬すべき国母たるルイーゼ王妃が崩御したことで生まれた感情は、悲しみというより、不安と虚脱感であった。
幸太郎は足を止め、頭を抱えて長息する。
「コウタロウくん」
「はい」
突然、幸太郎は自分の名前を呼ぶ穏やかな男性の声を聞いた。幸太郎は反射的に返事をしたが、見回しても近くに人影は見当たらない。彼は首を傾げ、一抹の不安を覚えたが――疲れているのだと考え、また歩き出した。だが、また再び声を聞いた。
「コウタロウくん、止まりなさい」
「はい」
幸太郎は声に言われるがままに、歩みを止めた。彼はまた声に対して反射的に従ったことに疑問を覚えた。しかし、幸太郎はこの声に聞き覚えがあった。しかしどこで聞いたのか、はっきり思い出せない。
幸太郎が首を傾げていると、彼の背後方向から、馬車がゆっくりと迫ってくる音がした。馬の蹄の音と、それに曳かれる車両の車輪の音は、幸太郎の立っているすぐ脇で停まった。すぐに車両の扉が開く。
「こんばんは、コウタロウくん」
車両の入口から顔を覗かせたのは、シャルンホルストであった。彼は微笑みながら続ける。
「さあ、馬車に乗りなさい」
幸太郎は何が起きているのか分からないまま、車上のシャルンホルストを見上げた。