「〝彼〟がそんなに気になるのか?」
というフンボルトの言葉で、幸太郎は我に返った。見れば、フンボルトは物珍しそうに幸太郎を見ている。幸太郎はフンボルトが〝彼〟という呼称に首を傾げつつ、物怖じせずに答えた。
「はい、〝彼女〟はとても美しいので、見ていて飽きません」
〝彼〟や〝彼女〟というのは、櫻花谷一護のことであった。
悪魔の山の一件以来、カズモリは幸太郎の注目を集めていた。実際、幸太郎はカズモリから極力目を離さずにいる。幸太郎はカズモリから発せられる美しい気配をずっと観察していたくて、一瞬でも目を離すことをはばかった。
それはカズモリと日本人たちの部隊が生ける屍と遭遇した時も続いた。これまで一行が生ける屍に出遭った時は、部隊の者たちが相手をし、フンボルト親子と幸太郎は自分の懐に忍ばせた拳銃を使うことにならないよう祈りながら、生ける屍から隠れるように身体を伏せていた。しかし今では、如何に醜い暴力行為が馬車の外で行われていようと、懐の暴力装置を使うかも知れない機会が襲って来ようと、幸太郎はカズモリを視界に捉え続けた。
幸太郎の視界では、カズモリという美の化身が、醜い屍たちに向かって正義の鉄槌を与えている様が繰り広げられていた。醜い屍たちが波のように襲いかかろうと、カズモリはその波を清く正しく美しい動作で薙ぎ払い続ける。何度も何度も、生ける屍たちの四肢が斬り飛ばされ、首を砕く銃声が轟いた。その醜悪の最中にあって、カズモリの姿は輝いていた。
「見よ」
幸太郎は今は傍らに居ない天使の声を聴いた。その声が示す先に、カズモリの姿はある。
「見よ」
幸太郎は確信を持ってその姿を見た。今も自分の側に天使が居たならば、きっと彼女の姿を指して、この美しいものを見よと言ったであろうと。
そんな調子でカズモリに見惚れている幸太郎に、フンボルトは念押しするように訊ねる。
「恋でもしているのではないか?」
幸太郎は顔を真っ赤にして答えた。
「まさか! 僕は美しいモノを愛しているだけであって、恋愛とは関係ありません!!」
フンボルトは溜息を着く。
「貴方が彼をどう思おうと勝手だが、本来受容的であるはずの女性の身体を持ちながら、常にエネルギッシュで男性的な彼には特に気を付けたほうが良い」
そう注意を促すように言うと、フンボルトは続けた。
これはカズモリが士官学校に居た頃の話だ。入学当初、カズモリは周囲から女性でありながら男装して軍人を志す変わった人間として扱われていた。日本人ではあったが名のある家の出であったことや、王妃陛下の後ろ盾もあって表立って批判する者は居なかった。しかし皆が彼の存在に慣れた頃に、「カズモリは女性であるので、当然か弱く、性的役割から頭脳の作りも男性のそれと違って理知的ではない。軍人には向いていない!」と公然と言い出す輩が現れたのだ。カズモリはこれを不当なもので、侮辱に当たるとし、言い出した輩に決闘を申し込んだ。それすらもただの意地でやったことだと相手に見られていたが、彼は見事相手を打ち負かし、謝罪を勝ち取った。聞いた話によると、相手が放った弾丸を斬り飛ばし、瞬時に相手の喉元に迫ったのだと言われている。それ以来、カズモリをただの女性扱いする者は居なくなったという。
「だから彼の扱いには気を付けろ。狂ったように強い部下たちも居るしな」
フンボルトはそうしてカズモリの逸話を披露すると、幸太郎に向かって注意を念押しした。
しかし一方の幸太郎はフンボルトの口から出たカズモリの武勇伝に目を丸くしたものの、彼の心にカズモリへの畏怖を抱かせるには至らなかった。幸太郎の心臓は高鳴っていた。美しいカズモリが醜い精神の持ち主たちを蹴散らし、自分の正義を示したことに打ち震えている。
幸太郎は馬車の窓を再び覗いてカズモリを探した。カズモリは馬上で進行方向正面を見据えている。
*
数日の後、一行は無事にフンボルト家の居城へ帰還した。
それはベルリンの中心部より離れた場所にあった。獣苑や田園の向こうに、ベルリンの城壁と稜堡が見える。それらを望むテーゲル湖畔に、そのルネサンス様式の城が建っていた。城の周りは塀垣で囲ってあり、不届き者の侵入を防いでいた。門は屍が侵入しないよう、頑丈な作りになっている。
それをくぐって現れた本物の貴族の城を目の前にして、幸太郎は棒立ちになっていた。フンボルトは笑って言う。
「どうした、幸太郎? これがシュロス=テーゲル、我が家だよ」
「えっと……」
フンボルトに話しかけられたことにより、やっと言葉を取り戻した幸太郎は必死に感想を口に出す。
「立派な建物ですねえ……」
捻り出した感想があまりにも陳腐で表現力の欠片も感じられなかったことに、幸太郎は恥じ入る。しかし城主であるフンボルトは「気に入ってくれて嬉しいよ」と笑い飛ばした。
このシュロス=テーゲルはブランデンブルク選帝侯であった頃のホーエンツォレルン家のヨアヒム二世、その宮廷秘書官のために一五五八年に建てられたものだ。我が一族のものとなったのは一七六六年のことで、僕と弟は幼少期の多くの時間をここで過ごしたのだ。
「さて、説明はこのくらいにして、中に入ろうじゃないか」
久しぶりに自宅に帰ってきたフンボルトは、少し浮かれているようだった。彼は幸太郎を導くように城の扉に手を掛ける。
「我が家へようこそ、幸太郎」
フンボルトが扉を開こうとした瞬間、そうするまでもなく城のドアが開かれた。
使用人らしき老夫婦が出迎えてくれる。
「おかえりなさいませ、旦那様、お子様」
見慣れた顔が揃って迎えてくれたことに、フンボルトは微笑して答えた。
「ああ、ただいま」
「ただいま、じいや、ばあや」
再会出来て嬉しそうに駆け寄るテオドールを、「じいや」と呼ばれた老人は抱き上げる。
「テオドール様! 再び会えて、じいもばあも嬉しゅうございますぞ」
その様子を見て幸太郎は胸を撫で下ろした。悪魔の山での一件があり、フンボルトの懺悔とテオドールの悩みの両方を聴き、ふたりの仲を案じていたのだ。それだけにふたりが無事にベルリンの家族に再会出来て、幸太郎は安心した。
そんなことを考えている横で、ばあやが幸太郎を指してイタリアから戻ったばかりの主人に彼のことを訊ねている。
「旦那様、あの方が……?」
初めて見る日本人に戸惑っている様子の老婆に、フンボルトは首肯して答える。
「そうだ。手紙に書いた通り、我が家に居候している日本人、幸太郎だ」
彼女は恐る恐るフンボルトに訊ねた。
「悪魔が憑いているというのは本当なのですか?」
「〝憑いている〟のでは無い。連れて来られたというだけだ」
主人が何処の馬の骨とも分からない日本人を弁護するので、老婆は念を押した。
「では大丈夫なのでございますね? 生ける屍が寄って集って来たりはしないのでございますね?」
「イタリアではそういうことはなかった。大丈夫だ」
フンボルトたちがそんなことを話し合っている間に、テオドールは佇んでいた幸太郎の元にじいやを自ら手を引いて連れて来ていた。
「じいや、幸太郎だよ。とても優しい日本人さ」
じいやはにこやかに幸太郎と握手する。
「お初にお目にかかります。この城を管理する役目を仰せつかっております、ルドルフ・ゼルチュルナーです」
幸太郎も微笑んで返す。
「こちらこそ初めまして。神喰幸太郎です」
そうして挨拶を交わしていると、主人と話していたはずの老婆がこちらを見て衝撃を受けた様子で叫んだ。
「おじいさん! 何をしているの?!」
呼ばれたゼルチュルナー老人は平然としている。
「ばあさんも何しとるんじゃ? 早く挨拶するんじゃ!」
そう言われた老婆は顔を顰めた。彼女が振り返ると、後ろにいたフンボルトまでもが幸太郎への挨拶を促している。老婆は躊躇うようにゆっくり幸太郎に近付き、恐る恐る手を差し伸べた。
「……フィリーネ・ゼルチュルナーです。この家の家事を仕切っております」
幸太郎も「宜しくお願いします」と握手して返した。
それを見たフンボルトは満足そうに首肯する。
「では幸太郎に部屋を案内してやってくれ」
「はい、旦那様」
フィリーネ夫人がうやうやしく答える。視線を交わさないように幸太郎に言った。
「幸太郎様、わたくしめの後に付いていらっしゃってください」
幸太郎はフィリーネ夫人の後に付いて歩きながら、テーゲル城内の風景に感激していた。歴史ある建物だということは、先程フンボルトから聴いた通りだが、それを証明するようなデザインの内装や装飾の数々を、目を輝かせて見た。
「立派な建物ですね!」
幸太郎はフィリーネ夫人の背中に向かって話しかける。
「旦那様はイタリアに居た頃から素晴らしい方だと思っていましたが、この建物も負けず劣らず立派だ」
「当然です!」
フィリーネ夫人は正面を向いたままきっぱりと答えた。幸太郎に背中を向けたまま、冷静に、しかし熱の籠もった口調で続ける。
「我々夫婦は先代の大旦那様、大奥様の頃からお仕えしておりますが、正真正銘の貴族であらせられました。この家にお仕え出来るのは、我々の誇りです」
フィリーネ夫人は歩き続けながら、やっと幸太郎を少し振り返って言う。
「幸太郎様も居候とは言え我が家のいち員。フンボルトの家名を穢されぬよう、お頼み申し上げます」
彼女の言葉に幸太郎はたじろいだ。フィリーネ夫人が幸太郎のことを歓迎しているわけではないことが、彼にもはっきりと分かったのである。困惑しながら幸太郎は答えた。
「はい、気をつけます……」
そうこうしているうちに、幸太郎は自室として用意された部屋に案内された。
幸太郎は荷解きもそこそこに窓を開けて外を見た。窓の外にはフンボルト家の広大な敷地が広がっている。風が森の木々の枝や湖の水面を揺さぶって波立たせた。湖には川から水が注いでいる。恐怖と暴力を振りまく生ける屍も、血のように赤く不気味に結晶化した場所も見受けられない、平和な風景が広がっていた。
幸太郎は微笑んで、ゆっくりと深呼吸した。この風景もきっと自分の手で描きたいと思った。
*
この年の十一月はことの外冷えた。テーゲル城から見えるティーアガルテンの木々も寒さと、駆除された生ける屍の血飛沫と、そこから発生・成長した結晶に纏わり付かれて病んでいるように見える。
古くは王侯貴族の狩猟場として栄えた獣苑は、ベルリンの城壁から締め出された生ける屍どもと相対する人間たちの最前線となっていた。
ベルリン市内に通じる道路には、簡易的な柵が巡らされている。幸太郎とフンボルトはそこを通過して市街に入った。
幸太郎は今し方通過した門の屋根をふと見上げた――幸太郎がベルリンの代表的な美術作品と言えば、と思っていたそれは、今はそこに無かった。当然である。ブランデンブルク門の上にあってベルリンを見守る、四頭立ての戦車に騎乗した女神・クアドリガは、一八〇六年にナポレオンによって奪われてしまっていた。
空座になっているブランデンブルク門の上部を見て物足りなさを感じている幸太郎を、フンボルトは促す。
「さあ到着したぞ。ここが王立ベルリン芸術アカデミーだ」
幸太郎は、今度はフンボルトが指す建物を見た。つるりと磨かれた石造りの均整の取れた建物が、そこに建っている。
「シンケルは今日はここで仕事をしているという事だ」
フンボルトはそう言うと、足取り軽く建物の中へ入って行く。友人と再会出来るのを前にして浮き足立っているようだった。幸太郎も彼に続いてアカデミーの建物に入った。
アカデミーに入ってすぐに目に飛び込んで来たのは、成人の身長の倍はあろうかという巨大なナポレオンの肖像画だった。戴冠式の衣装で玉座に就いた、見た目にも若々しく髪も豊かで生き生きとしたナポレオンが、こちらを見下ろして威圧している。それはフランスの画家であるアングルが描いたものと似ていた。
幸太郎は肖像画に一瞬たじろいだが、しかしフンボルトは構わず目的地へと続く階段へ足を掛けていた。幸太郎は浮かれた様子の彼に訊ねる。
「旦那様は、そのシンケルさんとはお知り合いなんですか?」
「そうだ」
フンボルトはシンケルとやらと出会った時のことを懐かしみながら答えた。
「初めて出会ったのは一八〇四年だったか……ローマの自宅に彼が訪ねて来てね、それ以来の仲だ」
「シンケルさんはどのような方ですか?」
「会えばすぐに分かると思うが……」
フンボルトは件の人物そのものというより、彼の作品のことを思い浮かべているようだった。
「自分の理想を具現化するためには労力を惜しまない男だ。彼はきっと、美しい物がどのような物か理解しているし、どうすれば実現出来るかも把握しているのだと思う」
しみじみとシンケルなる人物について語るフンボルトを見て、幸太郎は期待に胸を膨らませた。一体どんな素晴らしい芸術家が、この先で待っているというのだろう。
途端に、フンボルトはドアの前で足を止めた。続いて止まった幸太郎がそのドアを見ると、そこは工房に繋がるもののようだった。フンボルトが「ここだ」と言って扉をノックする。向こうからは「どうぞ」と低い声がした。フンボルトはドアを引き開けた。
その部屋には壁中に風景画が飾られていた。その下には単色の街や建物のジオラマ模型が整然と広がっている。床に撒き散らされた絵の具の汚れも見えるその上、工房の真ん中で、ひとりの人物がイーゼルを立て、キャンパスに向かって集中していた。彼は壁に飾られた絵画と同じく風景画を描いているようだった。
茶色いペンを握って、まるで自分の色素をキャンパスに向かって流し込んで描画しているような男性に静かに近寄り、微笑みながらフンボルトは言った。
「久し振りだな、シンケル」
呼ばれた男性は一瞬こちらを見た。再び画面に目を戻しながら、彼は「はい」と答える。作業を中断せざるを得ないことを惜しみながら、彼はペンを傍らの机に置く。
見れば、そのペンは葦の茎で出来ているようだ。また机の上の瓶の中には没食子のインクが入っている。
シンケルは微笑みながら、インクで黒ずんだ手を差し出した。
「また会えて嬉しいです、フンボルト男爵」
言いながら、彼らは握手する。
「それで、御用は何でしょうか? 知らない人間を連れて来ておきながら、旧交を温めに来ただけではないでしょう?」
シンケルの問いにフンボルトは苦笑した。
「まあ、そうだ。今日は彼を君に紹介したくてね――幸太郎!」
フンボルトの呼びかけに、今までぼんやり棒立ちになっていた幸太郎は彼らに駆け寄った。フンボルトは幸太郎を指し示してシンケルに紹介する。
「シンケル、彼は神喰幸太郎。我が家の居候で画家の卵だ」
自身を紹介してくれたフンボルトの言葉に続いて、幸太郎はシンケルに手を差し伸べる。
「初めまして、シンケルさん。お会い出来て光栄です」
「はい、初めまして、カンジキ」
そう言いながら、シンケルはフンボルトの紹介にあった「画家の卵」という言葉に首を傾げた。
「〝画家の卵〟というのは?」
これには幸太郎が自ら答えた。
「はい、ある事情でフンボルト家にお世話になっているのですが、独り立ちするために職を探しているのです。幸い、絵画の制作技術は習得しております。もしよろしければ、画家やその助手の働き口があれば紹介して頂きたいのですが……」
「画家の働き口、ねえ……?」
にこやかに事情を説明してきた幸太郎に対し、シンケルは眉を顰めて腕組みして呟いた。
首を捻り、頬杖をして暫く考えを巡らせた後、シンケルは重そうな口を開いた。
「画家の働き口は誰がくれると思う?」
急に相手の口調が重たくなったのを見て、幸太郎は恐る恐る答える。
「作品を買ってくれるひと――パトロンでしょうか?」
「分かっているじゃないか」
シンケルは幸太郎の答えに、満足そうに首肯した。彼はまた次の問いを投げかける。
「では現在、パトロンになってくれそうな人間はこの国にいると考えるか?」
すると、幸太郎がシンケルに返答するよりも先に、隣に立つフンボルトのほうが頭を抱えた。
しかしそんなことに気付かない幸太郎は、シンケルの問いの意図を分かりかねている様子で返した。
「ここはプロイセンの首都ですし、絵画や芸術を必要とする事業は沢山ありそうですが……」
その答えにシンケルは溜息を着いて眉を顰めた。
「やはり分かっていないな」
重たい口調のまま、彼は続ける。
「プロイセンはナポレオンに敗北して以来、王侯貴族の多くはケーニヒスベルクに避難した。更に貴族の殆どは土地や資産をナポレオンに没収された。つまり、今のベルリンにパトロンになってくれるような人間はいない」
「ええっ……」
働き口の無いことを断言されて、幸太郎は驚愕した。せっかく同業者になってくれそうな人物にも出会えたのに、肝心の働き口が無いなんて!
だが隣に立つフンボルトは、比較的落ち着いた様子であった。
「やっぱりそうだろうな」
ある程度状況を見通していたような、納得した表情で彼は続けた。
「働き口のある状況なら、君の手が空いているはずが無い」
フンボルトの言葉にシンケルも首肯する。
「そもそも〝絵画の制作技術がある〟と言われても、参考になる作品が無くては採用のしようもない」
そう言ってシンケルは幸太郎を見た。彼は先程働き口の無いことを宣告されて以来、困惑で頭が一杯になり、今の言葉すら耳に入っていないようだった。
シンケルは再び溜息を着いて、幸太郎に呼びかけた。
「カンジキ、まずは君の実力が分かるような作品をいくつか制作して来てくれ」
シンケルが話しかけて来たことに気付いて、幸太郎は顔を上げた。
「このアカデミーでは講義も行っている。それが受けられるように話しておくから、設備も遠慮なく使うといい」
その言葉を聞いて、やっと幸太郎は希望を取り戻したようだった。幸太郎はにっこり笑って、
「ありがとうございます、シンケルさん!」
と頭を下げる。それを見てフンボルトも口を開いた。
「シンケル、僕からも礼を言わせてくれ。友人を助けてくれてありがとう。この恩は必ず返すよ」
*
幸太郎がフンボルトに「旦那様、お願いがあります」と切り出したのは、芸術アカデミーからの帰り道だった。
「今度の制作では様々なモチーフで描こうと思います。なので、先日の旅でお世話になった日本人の方々の協力も仰ぎたいのです」
幸太郎はフンボルトに視線を合わせ、真剣な眼差しで訴える。
「あの方々がお住まいの場所をお教えいただけませんか?」
フンボルトには、眼の前の画家志望の青年が、わざわざ日本人やそれに関連するモチーフを絵画に採用する意図が分からなかった。しかし、先日自分の家族の前で披露した絵画を制作した力で以って、彼が次に何を描くのかに興味が湧いた。
「分かった」
フンボルトは首肯して答えた。
「行く時になったら伝えてくれ、地図と紹介状を用意しよう」
そうしてやって来た日本人村を馬車の車窓から初めて目にした時、幸太郎は呆然として呟いた。
「砦じゃん」
村を取り巻く田畑の向こうに、それはそびえ立っていた。実際にはそれほど高低差は無かったのだが、木の杭が乱立する空堀越しに見ると、それは山か丘のようであった。さながら平地に建設された、戦国時代の砦だ。
その城門の前まで、幸太郎はフンボルトに借りた馬車で送り届けてもらった。恐る恐る門扉の前に進み出る。すると、彼の頭の上から「其処許は何者か?!」と問う声が降ってきた。見上げると門扉の上部は櫓のようになっており、門番たちが自分を睨め付けているのが分かった。幸太郎は日本語で答えた。
「神喰幸太郎と申します! ヴィルヘルム・フォン・フンボルト男爵の紹介で参りました!」
日本語で返答があったことに、門番たちは戸惑っている様子だった。何しろ、西洋の装いの者が日本語で話し、かつ村の外の人間の紹介によってやって来たのである。彼らはしばらく問い合わせのために右往左往していたが、幸太郎の考えるより早く門番から日本語で回答があった。
「神喰幸太郎とやら! 村へ入る許しは下りておる! 入るが良い!」
その言葉と共に、城門の出入り口――正面の大扉ではなく、脇の人ひとりが出入り出来る程の小さな扉――が、少し軋む音を立てて開かれた。敷居の向こう側からは門番が訝しげな顔でこちらを見ている。幸太郎はその敷居を小さく「失礼します」と呟きながら跨いだ。
村の中は、幸太郎が他のヨーロッパの街で見たものと遜色なく、人々がそこそこ行き交っており、賑やかであった。戦国時代劇で観るような格好をした者や、村の外の西洋人たちと同じような装束の者など、様々な衣装を着た人々がいる。
そうして幸太郎が観察していると、村の奥から若い女性が手を振ってこちらを呼んでいるのが見えた。水色の小袖を着て、髪をまとめて背中に流している。幸太郎が女性と同じく手を振って応えると、女性はこちらに駆け寄って来た。
「神喰様! ようこそお出でくださいました」
水色の小袖の女性が深々と頭を下げる。
「神喰様をご案内するよう命じられております、まきと申します。申し訳ありませんが、本日は櫻花谷様のお加減が優れず……、つきましては神喰様を村長の元へ案内致します。さあ、こちらへ……」
幸太郎は、村の人間がわざわざ案内人まで用意してくれたことに目を丸くした。しかし土地勘も無ければ、断る気も起きなかった。
幸太郎も会釈程度に頭を下げる。
「はい、お願いします」
幸太郎は先導するまきに続いて道を進んだ。彼女とはぐれないよう気を付けながらも、珍しいものを見るような心地で周囲を見回した。
十九世紀初頭のヨーロッパはドイツで、自分の時代ではドラマの中でしかお目にかかれないような風景が、今まさに彼の視界を支配している。村の建物は土壁で、住民の家々は茅葺きらしきものと板葺きの屋根で作られていた。村人たちは月代こそ剃っていなかったが、皆髷を結っている。時代劇そのままの風景が、この村にだけ広がっているのだ!
幸太郎はまきに訊ねた。
「この村には、どのくらいの人々が住んでいるんですか?」
「さあ……詳しくは存じ上げませんが――」
彼の質問にまきは小さく口を開いた。
「ここへは櫻花谷家の全てのご領地の者が移り住んだと聴いております」
「それはすごい!」
正直言って、幸太郎には櫻花谷家の領地がどの程度のものか全然想像がつかなかった。しかし、過去に日本で保持していた全ての領地の人間をまとめ上げるだけのリーダーシップが、当時の当主にはあったのだろうということが、彼を感嘆させた。
さて、まきは立派な瓦屋根が載せられた門の前で一旦停止した。門の壁には鉄砲狭間らしき小窓まで見え、防備の厚さを物語っている。門を指して彼女は言う。
「ここから先が、櫻花谷様の住まう侍町でございます」
その言葉を合図に、重たい音を立てて門扉が開かれた。空気感の変化を感じ、幸太郎はたじろぐ。門の向こうの街並みは、まきが侍町だと言う通り、今まで村の中で見て来たどの家よりも堅固な造りをしているように見えた。何より、往来する侍たちが一斉に視線をこちらに向けて来た気がし、圧倒された。
「どうされましたか? 神喰様」
そんなことは分からないとばかりに、腰の引けている幸太郎にまきが問いかける。幸太郎は周囲を改めて見回して言った。
「今、誰かの視線を感じたんですが……」
まきも幸太郎に倣って辺りを見回す。彼女は首を傾げた。
「さあ……そんな者はおりませんが……気のせいでしょう。さあ、こちらへ」
「あ、はい……」
侍町を進んでいくと、町の中でも特出して大きな板葺きの屋敷が現れた。まきは屋敷の前で止まる。
「ここが村長である嶋の家でございます」
「嶋……?」
その名前には聞き覚えがあった。旅の道中、度々話しをしたことのある、あの図体の大きい隊員の名前ではなかったか。幸太郎はまきに訊ねた。
「嶋って、あのシマ隊員の?」
まきは幸太郎が既に彼の名前を知っていたことに驚いて、目を丸くした。
「あら、夫をご存知なのですね。フンボルト様御一行をお守り申し上げた隊のいち員である嶋清兵衛は、我が夫にございます」
「そうなんですか?!」
幸太郎は嶋清兵衛隊員の名前をやっと知れたことではなく、嶋隊員が既婚者だったことに驚いていた。自分より若いのに、もう結婚して奥さんがいるのか。でも時代が古いから、若くてもさっさと結婚してしまうのかな……?
そんなことに構わず、まきは説明を続けた。
「現在の村長は夫の祖父にあたる方が務めておられます」
そう言うと、彼女は屋敷の中へ入って行った。
まきに続いて屋敷の敷居を跨いだ幸太郎は広間に通された。
広間は高校までの日本史で見たような書院造りであり、部屋中に畳が敷き詰められている。それも使い古しのものではないらしく、微かなイ草の香りが幸太郎の鼻孔を刺激した。
幸太郎が座敷に正座して待っていると、間もなく色の抜けた総髪の老人が現れた。竹で出来ているらしい杖を突いてはいるが、矍鑠とした様子で威厳を放っている。
「ようこそ、はるばるお出でくださいました」
老人はにこやかな表情で言葉を紡いだ。幸太郎は畳に三つ指を着く。
「いえ、こちらこそ、急に押し掛けてしまい、大変申し訳ございません。また、先日のローマからベルリンへの旅では護衛をして頂き、ありがとうございました」
「何のこれしき」
老人は好々爺然として微笑んでいる。
「どうぞ頭を上げてください。我々は櫻花谷様の臣下としての務めを果たしたまでにございます」
老人の言葉に、幸太郎はゆっくりと顔を上げた。しかし、家族の行事で馴染みの無い親戚に会った時のような緊張感には慣れなかった。
畏まったまま彼は言う。
「時に、この村へはお願いしたいことがあり、参りました」
「ほう、それはどのような?」
老人がにこやかに促すのを見て、幸太郎は安心して、しかし真剣な面持ちで口を開いた。
「この度、王立芸術アカデミーに提出する絵画を制作することになりました。是非この村の風景を描かせて頂きたく、お許しを頂きたいのです」
彼は懐から封書を老人に向けて差し出した。
「こちらにフンボルト男爵の紹介状もあります。何卒ご検討をお願いします」
老人はまきを呼んだ。彼女は廊下に控えていたらしく、老人の近くの戸から静かに現れた。まきは幸太郎の差し出した封書を受け取ると、老人に手渡す。老人は手紙を一読すると、「なるほど、事情は分かり申した」と言った。
「しかし我が一存では決められぬ事柄と見受けます。櫻花谷様に急ぎお伝えし、判断を仰ぎます故、しばしお待ちくだされ」
幸太郎は頭を下げた。
「分かりました。ではご判断を待つ間、街を見て回ってもよろしいでしょうか?」
彼には好奇心が抑えられなかった。自分の時代では聞いたことがないプロイセンの日本人村が、どのようなところかとても興味があった。
それを知ってか知らずか、老人は微笑みながら言った。
「それならよろしいでしょう」
老人は傍に控えるまきに向かって命じる。
「まき、神喰殿のご案内を――」
それを聞いて幸太郎は即座に待ったをかけた。
「ああ、案内は結構です」
彼は屋敷の庭の向こうに建つ、黒光りする瓦屋根の城の如き屋敷を指した。
「あの櫻花谷様のお屋敷が、街中どこからでも拝見出来ますので、ご判断が下りました頃にまた伺います」
街へ出た幸太郎は、まず武家屋敷の街並みを見て回りたいと考えた。嶋の屋敷から見ても、板葺きの家並みや瓦屋根の櫻花谷屋敷、他にも石垣がドイツらしく煉瓦で造られている箇所もあって、とても興味深い。ちょうど昼時でもあったので、人通りも多くなっている。こういう時のために、彼はスケッチブックを用意してもいた。どうしてここに日本人が移住してきたのか、これまでの歴史や物語を知りたいと思った。
*
「おい、ここで何をしておる?!」
急に怒号を投げかけられて、幸太郎はスケッチブックから顔を上げた。驚いて周りを見渡す。すると、いつの間にか帯刀し、槍を手にした男たちに取り囲まれていた。街並みも嶋の屋敷がある大通りから逸れ、大きな櫻花谷屋敷からも遠ざかっていた。対する男たちも幸太郎の顔を見て息を飲んでいるようだった。
「何じゃこいつ、日本人ではないか!」
幸太郎のヨーロッパ風の装束を見て、村の外の者が勝手に入って来たと考えていた様子だ。
男たちのひとりが、幸太郎の人相を見てほくそ笑む。
「おお、こやつはフンボルト男爵にくっついていた日本人ではないか!」
男たちはどよめいた。
「何? こやつが?!」
「そう、あの殿様に馴れ馴れしく接した上、色目を使うておった――」
「ちょっと、何言ってんの?!」
〝色目〟などという言葉を出されて、幸太郎は憤慨した。
「確かにカズモリ様とはお話しさせてもらったし、ずっと見ていたかも知れないけど、僕は色目なんか使ってない!」
「こやつ自ら、殿を〝ずっと見ていた〟と言うておるぞ!」
「殿を男がずっと見ておるなど、大変ふしだらじゃ」
困惑する幸太郎をよそに、男たちは一方的に捲し立てる。幸太郎も何か抗議の言葉を紡ごうとするが、男たちの大声に負けて言い出せない。
男たちのひとりが、幸太郎の手元を指して叫んだ。
「見よ! こやつ何か持っておるぞ!」
それは幸太郎の大事な商売道具とも言えるスケッチブックであった。幸太郎は男たちの視界からそれを隠そうとした。しかしそれよりも早く男たちの浅黒い手が襲って来た。乱暴にスケッチブックを掴むと、幸太郎の腕から奪い取る。
「何をするんだ! 離せよ! 返して!!」
幸太郎は声色に怒りと悲しみを滲ませた。しかし男たちはそんなことなど知ったことではない。
「帳面じゃ!」
「何か描いてあるぞ!」
男たちはスケッチブックを勝手に開いて見た。
「おお、殿じゃ! 殿が描いてあるぞ!」
「こんなに描いてふしだらじゃ」
幸太郎は今、自分の人生で一番惨めだった頃を思い出していた。あれは小学生の頃、クラスの殆どの男子はクラスカースト上位のメンバーに率いられてドッジボールに興じていたところ、自分だけは頑固に黙々と自由帳に絵を描いていた時だ。幸太郎はあの美術館で天使の手を見てから、美しいものの象徴としてずっとそればかりを描き続けていた。
その時は休み時間ぎりぎりまで粘っていたので、クラスカースト上位の面々が帰って来るのに間に合わず、自由帳を覗き見られたのだ。
「男のくせに絵ばっか描いて弱っちい」
自由帳のページからページに、所狭しと描かれた天使の手を指して彼らは言った。
「しかもヒトの手ばっかり描いてキモ〜い」
幸太郎はそうした事を思い出し、怒りを爆発させた。
「勝手に見るなよ! 返せよ!!」
幸太郎はスケッチブックを持った男に掴み掛かった。しかし即座に男は幸太郎から逃げた。弄ぶようにスケッチブックを幸太郎の手から遠ざけ、隙を見て幸太郎を突き飛ばした。幸太郎は尻もちを着く。
「そら見よ」
涙が溢れんばかりの表情をした幸太郎を指して男は言った。
「殿の尻ばかり追いかけて、絵ばかり描いておるからひ弱なのよ」
鼻水をすする幸太郎を指して男たちは嘲笑する。
「おお泣くぞ、こいつ泣くぞ」
「だから悪魔とか言う有象無象に付け入れられるのじゃ」
言われるばかりの幸太郎は、最早流れそうな涙を堪えることが出来なくなりつつあった。顔を真っ赤にし、震えながら男たちを睨め付ける。
「しかし、こんなに西洋になじんでおって、本当にこやつは日の本の者か?」
男たちの群れの中にいたひとりが、幸太郎に近付きながら訝しげに言った。また別の男が彼を見下ろしながらそれに答える。
「それを試す方法がひとつだけあるぞ」
そう言うと、男が自分の腰に差してあった脇差を幸太郎の眼の前に投げ出した。
「腹を切れ」
言われた幸太郎は何を言われたのか分からなかった。〝腹を切れ〟を何度か自分の中で反芻し、やっと理解した時には顔から血の気が引いていた。腹を切れ。
「そうじゃ、腹を切れ。立派な日本男児なら腹を切って自分の魂を証明せよ」
幸太郎は男たちを見上げた。男たちは自分を見下しながら、嘲り笑っているように見える。
すると突然、集団の中にはいなかった、眼の前の男たちよりかは身分のありそうな侍が、幸太郎の横に進み出た。幸太郎はその侍を、希望の眼差しで見上げた。侍は彼を何の感慨も無さそうに見下ろす。
「……俺で良ければ介錯してやろう」
幸太郎は頭を抱えた。望みが絶えたのだ。
男たちが皆揃って幸太郎に寄ってたかって言う。
「さあ腹を切れ! 腹を切れ! 腹を切れ! 腹を切れ!」
切腹を待ち望む嵐の中で、幸太郎は眼の前に投げ出された凶器を見た。脇差は絵筆よりずしりと重い。力を込めて鞘から抜き放つと、煌めく刃が光を放った。
彼の横では侍が打刀を抜いて、彼を苦しみから解き放つ準備をしている。
幸太郎は空いた手で、着ているチョッキもシャツも前を開いた。脇差の刃を腹部に向ける。これで一息に突き立てれば良いだけである。
しかし突然、眼の前の男たちがざわついた。集団の壁の向こうから覇気のある声が大音量で響き渡る。
「この大たわけ共め! 何をやっておるか!!」
それは先程まで相対していた、あの嶋老人の声であった。集団は一斉に背後を振り向くと、土下座を始める。
「お、櫻花谷様!」
幸太郎はやっと自分の腹部から視線を上げた。集団を越えた前には、老人だけではなく嶋清兵衛とまき、そして今日は体調が良くないと聞いていたはずのカズモリが立っている。
「皆の者……」
カズモリは心なしか血の気の引いた顔を顰めながら言い放った。
「村の外の者であるとは言え、日の本の者に危害を加えるとはどういう了見か!」
「申し訳ありませぬ!」
集団が声を揃えながら、まるで波のように深々と頭を下げる。幸太郎は呆然とそれを眺めている。カズモリは続けて言った。
「我ら日の本の者が、普国に永く居住しておりながら、普国の民に受け入れて貰えぬ理由もここにある。そなたらのように戦う力を持ちながら、それを持て余し、平和の心を持つ者に対しても闇雲にそれを訴えるがために、我らは文明を持たぬ野蛮な民であると思われておるのだ!」
集団はさっきまでの幼稚な騒ぎ方が嘘のように、とても冷静にカズモリの叱責に耳を傾けている。
「日の本における戦国の世は遠く過ぎた。今度は普国に平和を齎し、世界にプロイセン魂を示すのだ!」
「ははーッ」
カズモリの言葉を継いだのは嶋清兵衛だ。
「騒ぎに関係した者共には追って沙汰を下す。それまで各々謹慎致しておれ」
その言葉に、集団はそそくさと散って行った。
それを見て、まきが幸太郎に駆け寄ってきた。
「神喰様、神喰様、ご無事にございますか?」
まきに声をかけられ、幸太郎はやっと正気に戻った。手に未だに脇差を握っていることに驚き、それを取り落とす。
「うわっ?!」
「大事無いようにございますな」
まきが微笑む。彼女も胸を撫で下ろしたようだった。
するとカズモリが幸太郎の元に歩み寄って来た。それを見てまきは幸太郎の前から退いて隣へ控える。彼女はカズモリに跪き、頭を下げた。逆に幸太郎はカズモリの姿を見て立ち上がった。何事も無かったかのように笑顔で話しかける。
「助けて頂き、ありがとうございました。カズモリ様……」
しかしカズモリは何も言わない。顔は未だに緊張にひりついたようになっており、幸太郎をひたすら見つめ続けていた。幸太郎はカズモリの顔を覗き込んだ。
「カズモリ様?」
その行動に、カズモリは幸太郎の頬を音高くぶっ叩いた。カズモリに頬を張られた勢いで、幸太郎は再び尻もちを着いた。幸太郎はキョトンとしてカズモリを見上げる。
「カズモリ様……?」
何と、カズモリは顔を真っ赤にして、目を潤ませていた。顔に力を入れて、平静を保とうとしているようにも見える。
「カズモリ様……?」
幸太郎は呟いた。