そこは講堂というより、教会の礼拝堂にも似ていた。
講堂内には教壇に向かって座席が設えられていたので、幸太郎は適当に前からも横からも真ん中の席に着く。彼はホッと息をつくと、室内を見回し始めた。
講堂内は薄暗い。教壇――というより祭壇に見える――にはキリストの十字架の代わりに、胸部から腹部にかけて多くの乳房のある、槍を携え兜を被った勇ましい印象の女神像が祀られている。講堂の最奥部の天井にある窓からは光が差しており、それが女神像を神々しく照らしていた。
突然、講堂の出入り口の扉が開閉する音が大きく響いた。幸太郎は全く油断していたせいか、思わずびくりと飛び上がった。背後を振り向く。
すると出入り口で真っ黒い人影がゆらりと揺れるのが見えた。明るい方へ進み出る人影。人影が進むのに追従するように、天井から下がった照明が灯されて行く。幸太郎の近くに寄ってきた辺りで、彼にはその人影がやっとリッツであるのが分かった。
リッツは何時もながら、頭の上から足の先まで濡羽色で統一された衣装を着ていた。ただ今回は、自分が魔法使いであるのを誇示したいのか、頭の上には三角帽子を被り、小綺麗に整えられたマントをなびかせ、握りだけに白い石を使った杖――幸太郎にはそれが、いつか異端審問官によって捕らえられ、拷問を受けた時に使われたものに似ているように思われた――を携えている。その上革のブーツを踏み鳴らして歩くものだから、余計に芝居がかって見えた。
リッツは教壇に登ると、お手本のような回れ右をし、幸太郎のほうを振り向く。そして講堂全体に響き渡るように呼び掛けた。
「魔力を扱う者と云うは、此の世と彼の世のあわいに立つ者を云う也!!」
幸太郎はこの言葉に、目を見開いてリッツに注目した――
*
――どうしてここで幸太郎がリッツの講義を受けることになったか。それは以下に続く出来事があったからである。
それは一八一〇年二月初頭のこと。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは前年の十二月から翌月まで、王室に暇を賜っていた。休暇が明けて初めて王宮に出仕した日、早々にそれは起こった。
「コウタロウ! コウタロウは居るか!!」
テーゲルに帰城した彼は緊張しているのか、幸太郎の名前を大声で呼び付けながら玄関ホールを行ったり来たりした。新しくこの屋敷に仕えるようになったばかりの若い娘は、落ち着かない様子で汗ばんだ手を開いては閉じを繰り返す主人を落ち着くように促しながら、彼の外套を脱がせる。
「カンジキ様は二階のお部屋におられます」
冷静な若い使用人の声に反して、主人であるフンボルトは一向に落ち着きを見せなかった。
「すぐに呼んで来い! ……否、やはり私が部屋へ行く!」
そう言い放つと、外套と荷物を使用人に押し付け、封筒を一通持って階段をずんずん駆け上がる。
「コウタロウ! 居るなら出て来い!」
その切迫した様子の声を聞きつけた幸太郎は、すぐに部屋のドアを開けて顔を出した。
「ヴィルヘルム! どうしたの?!」
フンボルトは幸太郎の元へ辿り着くと、息が切れているのも構わず幸太郎に話しかける。
「お前……一体何をやらかしたんだ?」
言いながら、フンボルトは持っていた封筒を差し出した。幸太郎は首を傾げながらそれを受け取る。見れば、封蝋の印はとても繊細ながら格式ある鷲の紋章であった。
やっと息を調えた様子のフンボルトが口を開く。
「今日、宮殿に顔を出したら、王妃陛下の侍従に渡されたんだ」
幸太郎はフンボルトの言葉に驚いた様子で顔を上げた。
「王妃陛下……?!」
フンボルトは深呼吸をして冷静になろうと努めながら、慎重に言葉を発する。
「コウタロウ、それはルイーゼ王妃からの招請状だ……お前宛ての、だ……お前は王妃陛下に呼び出されている」
「えっ……?!」
幸太郎は何を言われているか、一瞬理解が追い付かなかった。口をぽかんと開いてしまった。目を見開き、忙しなく瞬きをする。
困惑しながら、幸太郎は再び封筒に目をやった。何度も繰り返し宛名を確認する。だが何度見ても、封筒の宛名は一文字の誤りも無く「Kotaro Kanziki」と書かれてあった。
「でも僕、全然心当たりが無いよ。何か思い当たることをしていれば、とっくに警察か異端審問官のお世話になっているはずだけど……」
言い訳がましいことを言う幸太郎の手にある封筒を見下ろしながら、フンボルトは自らの顎に手をやる。
「待てよ……確か王妃陛下はリッツと契約関係にあったはずだ」
「〝リッツ〟……?」
フンボルトの呟いた人名を、幸太郎は復唱する。ただ、その名前は聞いたことがあっても誰のことかは思い出せず、彼は再び首を傾げた。フンボルトが面倒臭そうに解説する。
「ほら、お前が異端審問官に連行されたとき、助け出すために協力してもらった……」
その言葉に、幸太郎は目を見開いた。
「あの魔法使いだという……?!」
「そう、あの魔法使いのリッツだ」
そう言うフンボルト自身も、苦虫を噛み潰したような顔をしている。幸太郎はうんざりした様子で脱力し、「ええ……」と声を漏らす。
「あの面倒臭そうなリッツさんと王妃陛下が契約関係にあるの?」
「リッツの家は代々プロイセン王家と契約関係にあるんだ。本来は国王陛下と契約するはずだが、今は何故か代わりに王妃陛下が契約を結んでいるんだが……とにかく今はリッツと王妃陛下の間に結び付きがある。もしかしたら、リッツがお前のことを王妃陛下のお耳に入れたのかも知れないな」
フンボルトの説明に、幸太郎は頭を抱える。
幸太郎は以前リッツに出会った時、彼に「悪魔を譲れ」と言われたことを思い出していた。あの時はそこに居るフンボルトの助けがあって、やっとの思いでリッツの手を逃れることが出来た。しかし王妃とのコネクションを使ってまで追って来るとは誰が思うだろうか?!
幸太郎は絞り出すような声でフンボルトに訊ねた。
「何とかお断りすることは出来ないかな……?」
「まあ落ち着けよ」
今度はフンボルトが落ち着ける番になっていた。
「今回お前を招請しているのはリッツではない、王妃陛下だ。それにお前自身が言った通り、何か不都合があるなら、警察や審問官、あるいはリッツ自らの手でお前は捕縛されているはず。それが無いのだから、まずお前の安全に関わることでは無いだろう。それにこの招請がリッツの思惑だったとしても、まさか王妃陛下の御前でお前に手を出すなんて真似はしないはずだ。油断は禁物だが、安心して良いだろう」
幸太郎はフンボルトの言葉に、ためらいがちにうなずいた。幸太郎が不本意そうにしているのを察してか、フンボルトはそれを誤魔化すように苦笑する。
「僕は自分の仕事で忙しいので付き添えないが、まあ……頑張って来い!」
*
そうして幸太郎は王宮へ登城する日を迎えた。王宮からやって来た迎えの馬車と護衛たち――ローマからドイツへやって来た時のように、日本人の子孫たちであった――に警護されて、彼は宮殿へと向かう。
その城はベルリンの中心部にある、川の中洲に建っていた。繁華街である菩提樹の下通りを通過し、遊歩庭園を望む橋を渡って、王宮の西面に到着した。
降車する幸太郎。彼は馬車に揺られて受けた衝撃を和らげるためか、或いはいよいよ王妃陛下と面会することから高まってきた緊張をほぐすためか、肩を片方ずつぐるぐると回した。彼の目前にはベルリン王宮が誇る建造物のひとつ、エオザンダー門が聳えている。幸太郎はそれを見上げた。
そうしていると、その門から宮廷人らしき綺羅びやかなクリームイエローで統一された装束の人物が登場した。その人物は幸太郎の前にやって来ると、彼にうやうやしく頭を下げる。ブロンドの髪の束が一緒に垂れ下がった。
「コウタロウ・カンジキ様でいらっしゃいますね? わたくしは王妃陛下の侍従を務めております、オストヴァルトと申します。カンジキ様をご案内するよう、王妃陛下から仰せつかっております。さあ、こちらへお出でください」
オストヴァルトという侍従が門を透して城内を指し示す。幸太郎が彼の言うことに従って歩き出すと同じに、侍従も先導を始めた。
幸太郎はオストヴァルトに城内を先導されつつ、内装を見回していた。数々の装飾や歴代の王族のものであろう肖像画が、彼の目には輝かしく映る。
「素敵な内装ですね」
幸太郎は言った。
「見たところバロック様式のようですが、いつ頃のものか分かりますか?」
侍従が一瞬振り返って微笑むのを、幸太郎は見逃さなかった。
「さすが画家の方ですね、お目が高いことです。この城はプロイセンの王・フリードリヒ一世の治世に、アンドレアス・シュリーターの元でバロック様式に改装されました。一七〇〇年代に入ったばかりの頃のことです」
幸太郎は侍従の説明に首肯する。
「なるほど、勉強になります。ありがとうございます」
今度はオストヴァルトが長めに幸太郎のほうを振り返って訊ねた。
「時に、カンジキ様はシンケル殿のお弟子さんだと伺いました。やはり建物のデザインにご興味がお有りなのですか?」
なるほど、シンケルの絵画作品には建造物や風景画が多いとは幸太郎も思ってはいた。聞けばベルリンの都市計画にも、シンケルは携わっていると言う。しかし自分がそれをやるかは、幸太郎は少しも想像していなかった。
幸太郎はしばらく考えて答えた。
「正直言って、今は絵画に注力していて、建築にはあまり興味は無いのですが、いつかそういったデザインも出来たら良いなと思っています」
そうして世間話をしている間に、彼らは玉座の間に到着した。
入ると、まず最奥部の壁にプロイセン王家の紋章が描かれているのが目に入った。その下に玉座が設置され、それを守るように天蓋と幕が覆っている。
幸太郎はオストヴァルトに、しばらくこの部屋の中央で待つように言われた。女主人である王妃を呼びに侍従が一旦玉座の間から出て行くと、幸太郎はまた玉座の間の様子を観察し始めた。
天井を見上げれば鷲をモチーフとした装飾が施されており、壮麗なシャンデリアが吊り下がっている。床は様々な石材で模様が構成され、一点の染みも許さない厳格さで光り輝いていた。
幸太郎が部屋の美麗さに圧倒されて溜息を着こうとした瞬間、玉座の間にまた別の侍従のものらしき声が響いた。
「ルイーゼ王妃陛下の御成〜!」
幸太郎は驚いて心臓が高鳴るのを抑えられないまま、慌てて跪く。すると玉座の間の奥で扉の開く音がし、大勢の人間が入ってくる足音がした。幸太郎は、王妃が侍従たちやリッツなんかを従えて、ぞろぞろと入ってくるのを想像した。
間もなく扉が閉まる音がして、続いて侍従の誰かが部屋の真ん中で縮こまっている幸太郎に問うた。
「そなたが、遠く未来から来たと言う、悪魔憑きの画家であるコウタロウ・カンジキであるか?!」
〝悪魔憑き〟と呼ばれて、幸太郎は眉を顰めた。確かに自分には悪魔が取り憑いてはいるが、人前で、しかも大勢の前で、堂々と口にされるのは余りにも心外であった。しかし今はプロイセン王妃の御前に居る。
幸太郎は負の感情が口から漏れ出ないよう押し殺しながら答えた。
「はい、わたくしめが神喰幸太郎でございます」
「苦しゅうない、面を上げよ!」
気高く厳かなはっきりとした女性の声であった。幸太郎は言われた通りに顔を上げる。
彼の正面、玉座の隣に設けられた椅子には、古代ギリシャ風のすっきりとしたシルエットの白いドレスに身を包んだ女性が、ゆったりと腰掛けている。
着席してはいるが、男性にも負けない上背があることが伺えた。他の女性陣も皆そうであったが、たっぷりとした髪を後頭部の高い位置で束ねていることも、それを強調させる。ただ、彼女だけが他に居並ぶ人々よりも顔色が青白く見えた。しかし清く鋭く美しい目元が、病弱そうな印象を寄せ付けない。
幸太郎は、このひとが、このひとこそが現在のプロイセンとその国王を支え、共に支配しているのだと確信した。
また、王妃の左右両隣にリッツとカズモリが控えている。幸太郎はここにカズモリが居るのに驚き、心が浮足立つのを感じた。
再び侍従のひとりが口を開く。
「コウタロウ・カンジキ、この御方がメクレンブルク=シュトレーリッツ大公女にしてプロイセン王妃であらせられるルイーゼ様である」
それを聴いて、幸太郎は再び顔を下げた。
「お美しいルイーゼ王妃陛下のお顔を拝する機会を得られましたこと、恐悦至極に存じます」
「よい、つまらぬ世辞は無用!」
ルイーゼ王妃が幸太郎の口上を遮って言い放った。
「そのようなことを聞くために貴殿を招じたのではない。わたくしが貴殿をここに招いた理由はただひとつ、我が国、愛しのプロイセンがナポレオンのフランスに打ち勝てるかどうか、その結果を知っているであろう未来から来た貴殿に訊ねたかったからである! プロイセンの存亡に関わることを知っているなら、その全てを言い聞かせて欲しいのだ。どうだ、知っていることはあるか?」
「ええと……」
幸太郎は急に顔が紅潮するのを感じた。掌が湿っぽいようにも思える。視線が意味も無く床の美しい文様の線を追い始めた。何しろ、自分にしか答えられない内容で、かつ未来に起きることを伝えなくてはならないのだ。しかし、自分の分かりやすい狼狽え方が、何を話せば良いか思考するのを更に妨げて来る。
「どうした、コウタロウ?」
リッツの話し方は、分かりやすく北叟笑んでいる時の人間のそれであった。
「まさか我が国が滅亡する未来でも知っているのか?」
「戯けたことを申すな、リッツ! 王妃陛下の御前であるぞ!!」
カズモリがリッツに怒号を飛ばす。
それらを聞いていたルイーゼ王妃が幸太郎に重ねて問うた。
「どうなのだ、コウタロウ・カンジキよ。リッツの言う通り、我が愛するプロイセンは滅亡してしまうのか?」
幸太郎は、勿論プロイセンがナポレオンのフランスのために滅亡するわけではないことは知っていた。しかし未来のことを軽々しく話すことに対しての責任が、彼の口を閉ざさせていた。
ルイーゼ王妃は続けて言う。
「コウタロウ・カンジキよ。我が国が滅亡する未来を告げることに躊躇いを覚える必要は無い。もしそのような未来が来るのなら、最後の一兵となるまで戦い、勇ましく散る覚悟だ。だから心配は要らぬ。貴殿の見聞きした未来を申してみよ」
幸太郎の体に戦慄が走った。深呼吸をして冷静になろうと試みたが、震えが止まらない。思わずごくりと唾を飲み込む。
「恐れながら王妃陛下」
幸太郎はやっとのことで声を絞り出した。高貴な御方に聞こえているか怪しいほど、発音が唾に塗れて不明瞭な声だ。
「何故陛下はそんなに未来のことをお知りになりたいのでしょうか?」
それは、相手を恐れ慄かせるほどの死への覚悟を持ちながら、未来へ希望を繋ぎたがるように見える王妃に抱いた、幸太郎の疑問であった。
すると、ルイーゼ王妃の瞳が一瞬輝いたように見えた。ゆったりとした姿勢から身を起こす。
「……今わたくしは、我が国が滅亡するその時が来るなら、最後の一兵まで戦い、勇ましく散ると言った。しかし、それに子供たちを巻き込むわけにはゆかぬ。どうしても幸せに生きていて欲しいと思う。わたくしは一国の王妃ではあるが、それと同時にひとりの母親でもあるのだ」
ルイーゼ王妃は苦悶の表情で、そっと胸元に手を添える。
「わたくしは肺の病に冒されている。命ももう永くは保たないだろうとも考えている。自分が生きているうちに、子供たちが生き残るための算段を整えておきたいのだ」
彼女は立ち上がり、幸太郎に対して言い放つ。
「……国母として自身の子供の無事を優先することの不甲斐無さ、情け無さは弁えている。だが子供たちのためなら何でもする! これが理由だ。さあ答えよ、コウタロウ・カンジキよ!!」
幸太郎は大きく息を吐いた。一瞬全身の力が抜け、自分の表情が多少は和らぐのを感じる。
「王妃陛下のお覚悟、お聴かせ頂き、誠にありがとうございました」
幸太郎は顔を上げて、ルイーゼ王妃に少し微笑んで見せた。自分の胸をさすりながら言う。
「私、神喰幸太郎、とても感服致しました」
しかし次の瞬間には、幸太郎は自信無さげに顔を伏せていた。
「しかし王妃陛下のご心配なさっているこの国の未来については、正直なところ、この後どうなるのか私にも分かりかねます。私の時代で一般的に学ぶ範囲の世界史では、この時代のこの国のことを大きく取り上げないのです」
ルイーゼ王妃もまた表情を曇らせた。脱力するように着席する。
「では未来から来たという悪魔憑きですらも、この国がどうなるか皆目分からぬということか?」
「なあんだ」
リッツがつまらなさそうに吐き捨てる。幸太郎を指して言った。
「皆の者、この者を早くつまみ出せ」
「お待ち下さい!」
幸太郎は目を見開いて立ち上がった。周囲の者たちが動き出すのを制止するように両手を突き出す。
「王妃陛下、私の時代の世界史では、後の時代にこの国が大きく取り上げられる時がやって来ます! ドイツ統一の立役者として――」
リッツは嘲り笑った。
「ドイツ統一? 馬鹿な! 虚しい抵抗は止せよコウタロウ! バイエルンのように土着の民が築き上げたのではない人工国家であるプロイセンが、どうしてドイツを統一出来るというのか! それに北ドイツはともかくも、他の南ドイツ諸国やバイエルン、それにオーストリアが何と言い出すか――」
「今はその話はどうでもよい」
幸太郎とリッツの言い争いを、ルイーゼ王妃は遮って止める。
王妃は再び幸太郎を見遣って訊ねた。
「とにかく、プロイセンは無事なのだな?」
幸太郎は姿勢を正し、再び跪いて答える。
「ただ私の知る世界史とこの時代とでは違うところがあるので、確実にそうだとは言えませんが……」
自信無さげな幸太郎の回答に、ルイーゼ王妃は気品に溢れた微笑みで受け止める。
「いや、良いのだ。子供たちが生き残る未来があるという希望が見えただけでも、わたくしは嬉しく思う。それに、その時々で予期せぬことが起きるのはよくあること。我々に出来るのは、目指す未来に向かって算段を立てていくことのみ!」
王妃は再び立ち上がると、幸太郎に向かって手を差し出した。
「コウタロウ・カンジキ。わたくしのため、そしてこのプロイセンのため、その算段を立てることに力を貸してはくれぬか?」
幸太郎は首を捻りながら、うやうやしく頭を垂れて答える。
「は……私の画家としての力でお役に立てるのであれば――」
「否! 悪魔憑きのコウタロウ・カンジキよ!」
ルイーゼ王妃はきっぱりと言い放つ。
「貴殿の悪魔憑きとしての素養を活かし、魔法使いとして仕えてみぬかと言っているのだ!!」
王妃の発言に、幸太郎は目を見張った。驚愕したのは彼でけではない。玉座の間に居た皆が女主人に注目した。ざわめき、困惑した様子で隣の者と顔を見合わせたり、頭を抱えたりしている。突然の王妃の言葉を疑ったのは、その場に居た唯一の魔法使いであるリッツとて同様であった。
彼は体中を震わせながら、慌てて王妃に話しかける。
「急に何を仰るのですか、王妃陛下?! 陛下には私という魔法使いがついておりますのに!!」
その悲鳴のような発言を、逆に王妃が窘める。
「勿論、王室第一の魔法使いはリッツ、貴殿である。今までも頼りにして来たし、これからも宜しくお願いしたい」
しかし王妃は必ずしもリッツを安心させなかった。
「だがリッツよ、『悪魔憑きは豊富な魔力を悪魔から得ているから、優秀な魔法使いに最も近い存在である』と申したのは、貴殿自身であるぞ」
「確かにそう申し上げたかも知れませんが――」
リッツはルイーゼ王妃の言葉に、弱々しく頭を横に振る。徐々に顔が青白くなってゆき、見た目にも分かるほど汗をかいた。
王妃はリッツが小さく縮こまっているにも構わず続ける。
「算段を立て、かつ成功させるためには、手数を多く用意しておいたほうが良い。魔法使いも多く用意するに越したことは無いだろう」
リッツは肩を落として王妃に頭を垂れた。
「王妃陛下、貴方がそう仰るなら……」
ルイーゼ王妃はそれを聴いて、改めて幸太郎のほうへと向き直った。
「では改めて問おう。悪魔憑きのコウタロウ・カンジキ、貴殿の悪魔憑きとしての素養を活かし、魔法使いとして仕えてみぬか?」
幸太郎のほうと言えば、この期に及んで未だに不安げであった。
「しかし王妃陛下、私は魔法を使ったことも無ければ、使い方も分からないのです」
「それでは魔法のことは、そこのリッツに教えを乞うが良い」
王妃はしょぼくれているリッツのほうを見遣ってきっぱりと言う。
「よいな? リッツ」
リッツは最早諦めた様子で、大人しく、そしてうやうやしく再び頭を下げた。
「王妃陛下がお望みであるなら」
ルイーゼ王妃はリッツににっこりと微笑んで見せると、幸太郎に言った。
「貴殿が魔法使いとしての自信をつけるまでは、貴殿の申し出通り宮廷画家として迎え入れよう。それではどうか?」
幸太郎は微笑んで頭を下げた。
「ありがたき幸せ。必ずや画家としても魔法使いとしても、王妃陛下のお望みに応えられるよう、精一杯努めて参ります」
*
ベルリンのブランデンブルク門前の広場に幸太郎が呼び出されたのは、その数日後のことであった。
幸太郎は一通の手紙を手に、それと周囲の風景を見比べながら、広場をゆっくり周回していた。手紙にはただ一言、「王妃陛下の御命令のため、コウタロウ・カンジキをブランデンブルク門前で待つ」と認めてある。
周回が何周目かに差し掛かったところで、突然幸太郎の背後から強烈な光が発せられた。彼が振り向くと、ブランデンブルク門が七色に光り輝いているのが見えた。
ブランデンブルク門は二十一世紀からやって来た幸太郎の目から見れば、まるでプロジェクションマッピングで照らし出されたように、自ら様々な模様に光っていた。ただこれがプロジェクションマッピングでは無いのはすぐに分かった。門が原型を留めること無く、模様の形に合わせて粘土のように自由自在に変形していたのだ。模様が花の模様になれば門の輪郭に留まることなく大きな花が咲いたし、鳥が飛べばその翼が飛び出して見えた。
慣れ親しんだ門の派手な変貌ぶりを見て、通行人は腰を抜かしたり、立ち尽くして呆然と見守ったり、子供などは興奮して笑い声を上げたりしている。一方の幸太郎は、これが十九世紀の風景の中で、しかも無秩序に形を変形させているのを見て、口をぽかんと開けて唖然としていた。奇天烈過ぎて、美しさの欠片も認められなかったのだった。
こんなことが出来るのは、幸太郎の思う中ではただひとりしかいない。
そうしていると光り輝きながら変形を続ける門の通路から、ひとりの人物が登場した。その者は門の変貌ぶりなどどうでもよいと言わんばかりに平然とした様子で、幸太郎の元へとやって来た。リッツだった。
「どうしたコウタロウ。そんな阿呆面を晒して」
誂うようなリッツの発言に、幸太郎は呆れた。
「これは何かのイベントですか? リッツさん」
対するリッツは自信満々に胸を張って答える。
「勿論、お前に魔法使いの偉大さを見せつけるためのものだ。一般の下々の者たちにも、時折こうやって見せる必要がある」
そう言うと、リッツは幸太郎の腕を掴んだ。そのまま光り輝く門のほうへと引っ張って行く。
「さあ行くぞ、コウタロウ」
「行くって、どこに行くんですか?!」
奇天烈に光り輝く門へと連れて行かれることに困惑する幸太郎に、リッツは答える。
「我が領地、〝魔法使いの村〟だ。付いて来いコウタロウ、王妃陛下の御命令だ、お前を魔法使いにしてやる!」
リッツの決意を秘めたはっきりした物言いと速い足取りに、幸太郎は緊張感を覚えた。いよいよ魔法使いへの門を潜る時が来たのだ。彼は唾をごくりと飲み込む。そのままふたりは光る門を通過した。
一瞬目を閉じた幸太郎が再び瞼を開けた先には、鬱蒼とした森の中に切り開かれたらしい村があった。街道沿いには、中世に建造されたであろう石と木組みの家々が建ち並んでいる。それはいつか観光ガイドで見たメルヘンチックなドイツの風景と酷似していた。幸太郎はやっと自分がイメージしていたドイツの風景と出会えたことに、胸の高鳴りを抑えられなかった。
先立つリッツが幸太郎のほうを振り返って言う。
「ここが魔法使いの村だ。俺の屋敷はこの先にある。付いて来い、コウタロウ」
幸太郎は首肯し、リッツに付いて街道を進んだ。
周囲を見回してみると、家屋だけではなく、店舗も多数構えられているのが分かった。野菜などを並べた普通の食品店や、酔っ払いの出入りする酒屋の他、奇妙な形の雑貨や、怪しげな記号がラベルに記された液体入りの瓶を商っている店もある。魔法使いの村と言うのだから、魔法をすぐに始められるように道具を取り揃えている店も、平然と並んでいてもおかしくないのだろう。
幸太郎がそれらを興味深く観察する一方で、自身もじろじろと見られているのに気付いた。奇怪なものを見るように、眉を顰めて目を向けられている。
「……リッツ様が大変なモノを連れているわ」
「……なんてモノを連れているのかしら」
そう囁く声も耳に入ったが、幸太郎は自分が異邦人だからだろうと考えることにした。
――この時代に来て早くも二年以上が経った。異邦人扱いにもとうに慣れてしまっている。
しばらく歩くと、村の中でも一際大きな建物の前に到着した。
その屋敷の屋根や木組み、壁の色、全てが漆黒に染まっていた。門の上には二羽の鴉の像が左右に対になって配置されている。他にも様々な箇所に鴉の意匠が施されていた。
そうして周囲に圧倒的な威圧感を放っている建物の前に、リッツは突き進んで行く。
「さあ着いたぞ。ここが我が屋敷、〝鉄鴉亭〟だ」
すると、リッツは門に向かって力を誇示するように叫んだ。
「開けろ! 屋敷の主が帰ったぞ!!」
途端に、リッツの号令に従うように屋敷の門が開かれた。それを見たリッツは鉄鴉亭の中へと大股で入って行った。幸太郎も慌ててリッツの後に続く。
「失礼します……」
幸太郎が遠慮がちにそう言って入る。すると、突然玄関ホールに「リッツ様、お帰りなさいませ」という大勢の声が響き渡った。リッツの帰還に沢山の使用人たちが集まってきたところであった。彼らはてきぱきとリッツと幸太郎の上着や荷物を脱がせたり受け取ったりしていく。
リッツが使用人のひとりに話しかける。
「どうだ、ウーリはやる気になっただろうか?」
その問いに、使用人が「ウーリ様は――」と答えようとしたその時、二階から大きな足音を立てて誰かが駆け下りて来た。
「戻ったかリッツ! 何故カンジキとやらの指導を俺にやらせようとするのだ?!」
そう不満を漏らした人物は、ベルリンで頻繁に見かけるプロイセンブルーの軍服を着用し、ブロンドの髪をオールバックにして整髪料でかっちりと固めた、軍人然とした青年であった。ただ普通の軍人と違って、屋敷までの通り道で見かけた魔術師たちのように白いマントを上から羽織っている。少なくとも、姿勢や言動からはリッツよりも大人びて見えた。
リッツはウーリのほうを見てきっぱりと言った。
「決まっているだろう」
リッツは答えの数を指折り数えながら答える。
「ひとつ、実践的な魔術の扱いに長けている。ひとつ、俺は忙しい」
ウーリは更に口調を激しくして激昂した。
「俺だって忙しい! 我が国で軍事改革が叫ばれている今、すぐにでも戦場で魔術を専門的に扱える隊の設置を急がねばならないというのに、王室付きの魔法使いというだけで『自分だけが忙しい』という振る舞いをするのをやめろ。それに――」
ここまで言って、ウーリは突然気まずそうに口籠った。彼は自分たちのやりとりをぼんやりと見守っている様子の幸太郎をちらりと見る。幸太郎はウーリと視線が合ったのを見て、首を傾げて見せた。
するとリッツがウーリに「まあまあウーリよ……」と話しかけながら、彼の肩を抱き寄せた。幸太郎と顔を合わせない方向に一緒に顔を向くと、リッツはウーリと顔を見合わせる。リッツは声を潜めながら、北叟笑んで言う。
「この無自覚な魔人を我々の手で育て上げれば、将来の味方を増やすことが出来る。敵に回ったとしても、手の内を知り尽くした相手だ、倒すことは容易い」
ウーリはリッツの言葉を聴きながら、相手がニヤニヤ笑いながら恐ろしい話をしていることに戦慄した。ゾッとして、自分の頬に冷や汗が伝うのを感じる。リッツは話を続けた。
「なあに、いざという時は奴の契約している悪魔を奪い取ってしまえば良いだけのこと。俺が魔人になろうとも、誰も悪い顔はしないだろう?」
ウーリはすっかり身体が凍り付いたようになってしまった。リッツから顔を背けたいが、それは出来なかった。ゴクリと唾を飲み込む。
すると打って変わって普段通りの笑顔になったリッツが、ウーリの肩をばしばしぶっ叩きながら笑い声を上げた。
「どちらにしろ、自分の隊を持つのであれば、その分の人間を教育しなければならない。魔力の豊富な悪魔憑きのひとりも一人前にすることが出来ないようでは、それは夢のまた夢となるだろう。どうだ、やる気にになったか?」
ウーリは溜息を着いた。後頭部を掻きながら言う。
「仕方ない。お前の言うことにも一理ある。カンジキとやらに魔術の実践的な手法を指導すれば良いのだな?」
「そうだ」
リッツは首肯すると、幸太郎に向かって「来い」という仕草をした。
「コウタロウ、彼がお前に魔術を指導するウーリだ」
幸太郎は使用人たちの空けた道の間を通ってふたりの元へやって来た。ウーリの顔を見上げる。
「初めまして、ウーリさん。神喰幸太郎と申します。ご指導よろしくお願いします」
ウーリは幸太郎を苦い表情で見下ろした。
「……カンジキよ。貴方はいつもそうやってフルネームを名乗っているのか?」
幸太郎は常識だと思っていたことに疑問を呈され、首を傾げた。
「そうですが……何かまずいことでもあるのでしょうか?」
ウーリが冷徹な口調で答える。
「他人に名前を知られることは、魂を捕まえられることに等しい。魔術を扱う者はそれを厳に警戒する。名前を知られて良いのは、親類や師匠、雇い主くらいだ。お前も魔術を学ぶなら、今後みだりにフルネームを名乗るのは慎むべきだ。大変破廉恥だぞ」
「分かりました、今後気をつけます」
ふたりの会話が終わったのを見て、リッツが言った。
「では実践の前に魔術を扱う者としての心構えを俺から教えよう。使用人に案内させるので、講堂で待っているように」
*
そこは講堂というより、教会の礼拝堂にも似ていた。
講堂内には教壇に向かって座席が設えられていたので、幸太郎は適当に前からも横からも真ん中の席に着く。彼はホッと息をつくと、室内を見回し始めた。
講堂内は薄暗い。教壇――というより祭壇に見える――にはキリストの十字架の代わりに、胸部から腹部にかけて多くの乳房のある、槍を携え兜を被った勇ましい印象の女神像が祀られている。講堂の最奥部の天井にある窓からは光が差しており、それが女神像を神々しく照らしていた。
突然、講堂の出入り口の扉が開閉する音が大きく響いた。幸太郎は全く油断していたせいか、思わずびくりと飛び上がった。背後を振り向く。
すると出入り口で真っ黒い人影がゆらりと揺れるのが見えた。明るい方へ進み出る人影。人影が進むのに追従するように、天井から下がった照明が灯されて行く。幸太郎の近くに寄ってきた辺りで、彼にはその人影がやっとリッツであるのが分かった。
リッツは何時もながら、頭の上から足の先まで濡羽色で統一された衣装を着ていた。ただ今回は、自分が魔法使いであるのを誇示したいのか、頭の上には三角帽子を被り、小綺麗に整えられたマントをなびかせ、握りだけに白い石を使った杖――幸太郎にはそれが、いつか異端審問官によって捕らえられ、拷問を受けた時に使われたものに似ているように思われた――を携えている。その上革のブーツを踏み鳴らして歩くものだから、余計に芝居がかって見えた。
リッツは教壇に登ると、お手本のような回れ右をし、幸太郎のほうを振り向く。そして講堂全体に響き渡るように呼び掛けた。
「魔力を扱う者と云うは、此の世と彼の世のあわいに立つ者を云う也!!」
幸太郎はこの言葉に、目を見開いてリッツに注目した。自然と背筋が伸びる。
リッツが続けて言った。
「中でも魔術師と云うは、魔力を扱い、此の世の成り立ちを探る者を云う。魔法使いはその先頭に立ち、此の世と彼の世の調停と司る者である」
リッツはゆっくりと幸太郎のほうへと歩みを進めて来る。
「ところで、魔女とは、古くは〝垣根の上を飛ぶ者〟を意味した。柵や垣根はムラと野生の境界を象徴するものなのだ」
リッツは幸太郎の側までやって来ると、彼の肩をガッツリ捕まえた。「コウタロウ……」と低い声で幸太郎の眼前に迫る。
「お前には垣根を飛び越えて向こう側へ行く資格がある。境界を飛び越えよ、〝ファウスト〟」
幸太郎は〝ファウスト〟と呼ばれて訝しげに首を傾げた。〝ファウスト〟という言葉をどこかで聞いたことがあった気がしたが、けれども思い出せない。幸太郎はリッツに呼ばれたままに聞き返す。
「〝ファウスト〟って何ですか?」
「お前の新しい名前だ」
リッツがきっぱりと即答する。
「俺が〝リッツ〟と、ウーリが〝ウーリ〟と呼ばれているように、これからお前はファウストと呼ばれるようにしろ」
「はい、ありがとうございます……?」
幸太郎はぼんやりとそう返したものの、しっくりとは来ていなかった。新しい名前とは言うものの、唐突に付けられた上に、慣れない横文字の名前であった。
しかし、一方のリッツはこれで満足したらしく、スッと幸太郎から離れた。
「さて、俺からはとりあえず魔術を扱う者としての心構えを教えた。これからもこの言葉を忘れないように精進しろ」
「はい」
「ではウーリの元へ行き、魔術の実践的な手法を習え。彼は演習室に居るはずだ」
*
「失礼します」
そう言って演習室に足を踏み入れた幸太郎は、ウーリがどこに居るか確かめるべく、周囲を見回した。
最初に連想したのは、高校の理科室と美術予備校のアトリエだった。教室というより、工房に近い。薬品を扱うためのビーカーやフラスコ、蒸留を行う設備など、科学実験に使うような器具が一式揃えられている。他にも村の街道に建ち並んでいた店の一角でも売られていた薬品の瓶の数々や宝石の原石の塊、球体関節人形などが壁際に所狭しと置かれていた。部屋の中央では大きな炎が焚かれており、それが部屋中を明るく照らしている。
幸太郎はこれに似た風景を描いた絵画を何処かで見た気がした。確か、ジョセフ・ライト・オブ・ダービーの『リンを発見する錬金術師』だったか――
そんなことを考えていると、焚き火の向こう側にウーリの姿が見えた。彼は焚き火の明かりを頼りに、小さな作業机の上に燭台と蝋燭を立てている。幸太郎と焚き火の向こう側のウーリの視線が合う。
「来たか」
ウーリは訊ねる。
「名前は貰ったか?」
「はい」
幸太郎はウーリのほうへと歩み寄りながら、どこか他人事のように答えた。
「え〜っと、ファウストだそうです」
「ファウスト――」
ウーリは眉を顰めた。幸太郎から視線を逸らすどころか、そっぽを向く。
しばらく首を捻ってウンウン唸った後、ウーリは再び幸太郎と向き合って言った。
「ファウスト、ファウストね。改めて宜しく、ファウスト」
ウーリはお次に、幸太郎の手元に始まって頭の上から足の先まで眺める。
「ところで杖は作らないのか?」
「杖」
幸太郎は今言われて初めて気付いた様子で「あっ、杖!」と驚きを口にした。
確かに、魔法使いと言えば魔法の杖である。小学生の頃から小説で慣れ親しみ、映画化される毎に観に行ったハリー・ポッターでも杖が重要アイテムとして登場した。魔法には杖が必要なはずだ。
「そうですよね……リッツさんからは何も言われてなくて……やっぱり杖が無いと魔法は使えないですよね」
「いや、杖が無くても魔術は使える」
自身の認識をきっぱり否定するウーリの発言に、幸太郎は目を瞬いた。
「えっ、そうなんですか?!」
「確かお前の生業は画家だと聞いたが……?」
突然ウーリが話題を変えたので幸太郎は首を傾げた。ただ一応は画家としてこの時代を生きて来たつもりではあったので、ウーリの問いにゆっくり首肯する。幸太郎が首を縦に振ったのを見て、ウーリは続ける。
「ならば絵画を描く時に画家は筆を使うが、筆を使わなければ絵画が描けないわけではないだろう? 絵画を描くのに必要なのは絵の具であって、筆の存在は問題では無いはずだ。魔力が魔術にとっての絵の具で、杖が魔術にとっての筆なのだ。杖は魔力を意識するための道具に過ぎない」
「では魔力を意識出来れば杖なんて必要無いと言うことですか?」
幸太郎から投げ掛けられた問いに、ウーリは首肯して答える。
「そうだ。今回は魔力を意識するための訓練を行う。杖を作って使うにしろ、魔力を意識出来なければ何も出来ないからな」
ウーリは火の点いていない蝋燭の載った燭台を幸太郎の前に差し出した。
「最初の訓練だ、ファウスト。この蝋燭に火を灯してみろ」
言われて、幸太郎はたじろいだ。ウーリの言葉は長さこそあったが、十分な説明を受けた気がせず、腰が引ける。
「えっ……いきなりですか?!」
ウーリは幸太郎が驚いているのを見て眉を顰めた。
「何を驚く。魔術師の子弟なら蝋燭に火を灯すことくらい朝飯前だぞ。だいたい、お前は悪魔憑きなのだから、そこらへんの子弟より強い力を持っているはずだ」
幸太郎はウーリが余りにも説明してくれないことに困惑した。
「いや、でも、せめて……」
彼は師匠からヒントを頂戴しようと、ヒントになりそうなものを自分のファンタジー知識から絞り出す。
「呪文とか……」
「呪文に決まった型は無い!」
ウーリは容赦無くきっぱりと言い放った。
「呪文は術者が術のイメージを文言に表現することで、術の確度を上げるためのものだ」
彼はそう言うと、腕組みをして嘲笑し、そっぽを向いた。すぐ近くにあった椅子に腰掛ける。幸太郎は、ウーリが一瞬、冷たい視線を投げ掛けて来たように感じた。
幸太郎は意気消沈して深く溜息をついた。頭を抱えながら目を閉じる。
その瞬間、彼の頭の中に山羊が高らかに鳴く声が響きが渡った。嘲笑うようなその声に幸太郎が眉を顰めると、悪魔の囁きが彼に聞こえた。
(お困りのようですねえ)
幸太郎は悪魔の声を振り払うように、耳の横で手を振り回す。
(集中してるんだ、邪魔すんな)
だが悪魔の声は幸太郎から遠退くことは無かった。平然として幸太郎に囁き続ける。
(貴方には惜しみ無く魔力を注いでおります。絶えず自らの母語でドイツ語話者たちとコミュニケーションを取れているのが、何よりの証拠です。それでも有り余る程の力を私は持っています。魔法だって、あのローゼンクランツとやらや、そこに居る者よりも熟達し、強力なものも扱えます。魔法・魔術のことでしたら、真っ先に私に訊ねてくださればよろしいのに!)
(誰がお前なんかに!)
幸太郎は今度は首をぶんぶん振った。
(今まで何も教えてくれなかったくせに、都合の良い時だけ口出しして来やがって……)
(まあそう言わずに)
悪魔は開き直った様子で続ける。
(だいたい、呪文だって何だって良いんですよ。例えば……「テクマクマヤコン」とか)
悪魔が口にした呪文が、昔ながらの魔法少女アニメのものだったので幸太郎は驚いた。
(『ひみつのアッコちゃん』じゃん! そもそもの用途が違うだろ、変身したいんじゃないんだよ)
(じゃあ、「リリカルマジカルレナナーレ」とかですか)
(それは『それいけ! アンパンマン リリカル★マジカルまほうの学校』か!)
それは未だ幼い頃、衛星放送で放送されたのを録画し、繰り返し観たアニメ映画であった。
(いや僕じゃその呪文は使えないだろ、リリカちゃんじゃないんだから……)
悪魔も面白くなってきた様子で、次の呪文の例を繰り出した。
(「ピリカピリララ ポポリナペペルト」)
幸太郎は半ば呆れて来ていた。
(それだって『おジャ魔女どれみ』の春風どれみちゃんの呪文じゃねーか!)
幸太郎はとうとう頭に来て、頭の中の悪魔に向かって怒鳴り散らした。
(だいたい何で魔法少女アニメの呪文ばかり提案して来るんだ! 実際使えたところで毎回元ネタが浮かんで魔法どころじゃないだろ! もっと真面目に考えて教えてくれよ!!)
そうしていると、ウーリが立ち上がった音がした。幸太郎が目を開けて彼のほうを見ると、溜息をついて近付いて来るのが見えた。穏やかな声で幸太郎に言う。
「どれ、貸してみろ。これからお前に手本を見せてやる。これを参考にしてやってみろ」
幸太郎は安心してホッと息をついた。
「あっ……ありがとうございます」
もう面倒な悪魔の相手をしなくても良いのだ。そう思って、幸太郎はその場を退いた。
ウーリが幸太郎と入れ替わるように蝋燭の前に立つ。一息ついて、蝋燭の前に手を翳す。蝋燭の先を見つめて彼は言った。
「呪文とは、使う術を想像するためのものだ。今から自分がどのような術を使うのかを文言にすることによって、発動する術の確度を上げることが出来る。大切なのは、想像力だ」
――大切なのは、想像力。
幸太郎はこの言葉を、心の中で復唱し、反芻した。
ウーリは続けて言う。
「画家を生業とするならば、その力があるはずだ。これを見て、よく習え」
そうして、ウーリは詠唱を始めた。
「――火よ、
――四大元素の第一の火よ、」
それはただ唱えるというより、歌うことに似ていた。
「――文明を齎したプロメテウスの火よ、
――罪を浄化する聖なる火よ」
ウーリのテノールの歌声に合わせて、周囲で火花が小さく輝いた。幸太郎はウーリの詠唱に感動して打ち震えている。
「――ベルリンの〝運命の輪〟の名に於いて、我エーベルハルト・ウルリッヒ・インゴルフ・ヴァイス・フォン・シャルフェンベルクが命ず、
――この蝋燭の先に煌々とした明かりを灯せ!」
ウーリは詠唱を終えると同時に、蝋燭の前に翳した手をそっと持ち上げた。彼の手の動きと同じに蝋燭の先が発火し、火の先が伸びる。幸太郎は蝋燭の発火の際の「シュボッ」という音に、思わず驚き、身を震わせた。
ウーリは再び一息つくと、蝋燭の火を手で勢いよく風を吹き付けて消してしまった。そうして幸太郎のほうを振り向いて言う。
「これが俺の術だ」
彼は自分の背後に居た幸太郎の背をそっと押す。
「さあ、やってみろ」
幸太郎はウーリの言葉を聴き、手本を見ても、未だに自分に魔法が使えるか信じられずにいた。しかしウーリが「大切なのは、想像力だ」「画家を生業とするならば、その力があるはずだ」と言うならば、きっと出来るのだろうと思った。
幸太郎はウーリの動作を真似て、蝋燭の先に向けて手を差し出した。火を想像することを心に念じながら、瞑目する。
――まず最初に想像したのは、実家の仏壇の前で正座する自分だった。細くて短い蝋燭を燭台に立てて、点火棒で火を点けようとする自分であった。
――次に思い付いたのは、乾麺を茹でようと、鍋に水を満たし、ガスコンロに点火しようとスイッチを回す自分であった。
――また次に思い浮かべたのは、東京に居る自分であった。思うように作品を作ることが出来ず、腹が立って初めてコンビニで適当な紙タバコを購入したのだ。店を出てすぐに灰皿の有無も確認せず、喫煙しようと紙タバコを早速取り出し、ライターで火を点ける自分を思い浮かべた。
だが幸太郎は結局、そのどれにも納得がいかなかった。今の幸太郎は違う世界、違う時代にいる。それらの思い出は、遠い昔のものであった。
幸太郎は首を傾げた。眉を顰めて、小さく唸る。
その時であった。
(炎……厭ですねえ……)
鳴りを潜めたと思っていた悪魔が、幸太郎の耳元で小さく囁いた。悪魔の囁きに、幸太郎がこの世界・この時代に転移して来た時のことがありありと思い出される。
――像を残して逆に回りだす、壁掛け時計の針。
――ダリの絵画のそれのように溶解する、壁掛け時計。
――流れ落ちながら顔料の粉末と溶剤であった油とに分離する、部屋の隅に押し込められていた油絵の習作に使われていた絵の具。
――急激に勢いよく燃えながら容量を増す、テーブルの上にあった灰皿の中の煙草の山。
――そこへコップやペットボトル、缶から溢れた内容物が合流し、激しく燃え上がる。
――炎上に巻き込まれる、幸太郎の身体。
幸太郎は唐突に目を開けた。
その瞬間、蝋燭の先が爆発した! 爆風が広がり、周囲の物品が音を立てて落ちたり、揺れて鳴ったりした。
一方、幸太郎は炎が大きく燃え上がるのを見て、慌てて手を引っ込める。彼は腰を抜かして背後に倒れた。
一部始終を見守っていたウーリすらも、驚愕に目を丸く見開いている。衝撃を防いでいた腕の構えを解くと叫んだ。
「何を想像したんだ、お前?!」
訊かれた幸太郎は尻もちを着いて呆然としている。冷や汗をかきつつ肩で息をしながら、ウーリと顔を見合わせた。
「あ、あの……」
ウーリは舌打ちすると、壁に立て掛けておいたらしい、しかし床に倒れている自分の杖に手を向け、「杖よ来たれ!」と怒り口調で命じると、今度は幸太郎に向かって言い放った。
「いいから、お前は次の訓練までに自分の杖を作れ! 杖無しで訓練はしない! 良いな!!」
「とりあえず、この場の片付けを――」
混乱しながら場を取り繕おうとする幸太郎に、ウーリは再び怒号を発する。
「否! 何もしなくていい! 触るな! 疾くこの部屋から出ていけ! 早く杖を作って来い!」
そう言うと、ウーリは杖――握りの側が短銃の銃床のような形をした、銃剣道で使用する木銃そのもののような形をしている――を振り回しながら、美しく激しいテノールボイスで詠唱を始めた。物が動いているのか、擦れ合う音がする。
幸太郎は黙って演習室を後にした。
彼は謝ることも、復旧の手伝いもさせて貰えなかったことに心を痛めた。しかし一番悔しかったのは、ウーリの美しい詠唱とそこから発生する魔術の様子を、間近で観察出来なかったことであった。